「老師」らしい振る舞い

それにしても、「地位が人を作る」と言うが、呼称もそういうところがある。それ相応の待遇に変わるのだ。

私も「老師」と呼ばれるようになったころから、説教や講演で寺院に出向くと、出迎えに若い僧侶がいて、挨拶するなり「お荷物をこちらに!」などと元気よく手を出される。荷物も持てない歳でも体調でもないのだから、当然「結構です!」と固辞していたのだが、あるとき、修行僧仲間だった同輩から、こう言われた。

『苦しくて切ないすべての人たちへ』(著:南直哉/新潮社)

「直哉さんよ、これもこの若い衆の役目だぜ。仕事、取り上げるなよ」

言われて、あァそうか、と思った。自分も若い時にはそうだった。大きな法要などが計画されれば、係りの割り振りで、誰がどの「老師」の世話役になるのか決められる。その上での話だから、当日役目を役目としてこなせないと、調子が狂う。

ということをその時飲み込んで、最近は手を出されたら、素直に渡すようにしている。ただ、待遇の違いはそればかりではなく、通される部屋とか、わざわざ挨拶に来る人とかも、「一兵卒」時代とは違う。食べ物飲み物もそうだ。

ならば、「老師」の待遇にふさわしい振る舞いを求められているわけだろうし、こちらにはそれに応える責任もある……という流れで、次第に「呼称が人を作る」こともあるわけだ。

かくして、いつしか地位や敬称に遜色ない態度や行動ができるようになると、それを人は「板に付いてきた」と言うわけだろう。

実を言うと、私はこれがダメなのである。どんな立場にあっても、いかなる役割についても、どこかに違和感が残って、板に付かない。「老師」らしくならない。

以前、何かと私を贔屓(ひいき)にしてくれる老師が、「南君も、もう少しそれらしい振る舞いが身に付けば、ずっと先にいけるのに」と言ってくれた。

が、そこに居合わせた私の上司が、「そうなったら、南君は南君じゃなくなるから、それは不幸だよ」と即答した。それは私の実感でもあった。