木の上の老師
昔中国で、高い木の枝の上で坐禅を続ける老師がいた。
通りかかった人が見上げて、「ずいぶん危ないところで坐禅してますなあ」と言うと、老師曰く、「そうかな。自分には歩いているアンタのほうが、ずっと危なく見えるがね」
この老師は、木の上が平気になったから、下を歩いている人間の足取りの危うさが見えるのではないだろう。そうではなくて、木の上の危うさがつくづく身に染みているから、下を歩く人間の平気さ加減が恐ろしいのだ。
木の上に登る必要は毛頭ないが、道を歩くばかりか、板に付き過ぎて坐りこむのも、実は危ないのではないか。この先の我が身と人々の行く末を思うと、私は解消しない自分の「ズレ」を少々いとおしく感じる今日この頃である。
※本稿は、『苦しくて切ないすべての人たちへ』(新潮社)の一部を再編集したものです。
『苦しくて切ないすべての人たちへ』(著:南直哉/新潮社)
この世には、自分の力ではどうしようもないことがある。
そのことに苦しみ切なく感じても、「生きているだけで大仕事」と思ってやり過ごせばいい――。
恐山の禅僧が説く、心の重荷を軽くするメッセージ。