大乗仏教の「唯識」思想

イメージという点で、現実と夢の区別はつかない。違いは、そのイメージがどれだけの規模と強度で、いかに長く他人と共有されているか、だけである。規模と強度と期間──それらが他に勝るイメージが、我々の現実となる。夢の「現実」は、“最弱の現実”として淘汰されるわけである。

このことを大乗仏教は「唯識(ゆいしき)」とよばれる思想で、大昔から教えている。この思想を極端に単純に言ってしまえば、我々は「存在しているものを認識する」のではなく、我々の「認識が一切の存在をつくり出す」ということである。

夢がイメージなら、我々の現実も実はイメージである(撮影:新潮社)

唯識思想は、我々と外界、存在するあらゆるものが、「阿頼耶識(あらやしき)」と呼ばれる、根源的な意識から生まれてくるのだと言う。それは当然個人の意識を超え、個人の意識を拘束する。それが共通の「現実」を作り出し、我々に現実を与えるのである。

この思想に全面的に賛成するかはともかくとして、我々が手にすることができる現実がイメージにすぎず、要するに夢と質的に差がない「現実」でしかないことは、事実である。

となると、問題は「何を認識するか」ではなく、「どう認識するか」になるだろう。認識の仕方で存在するものの在り様が変わってしまうからである。まさにここが、いまの時代に大きく浮上している「バーチャル・リアリティ」「フェイクニュース」問題の勘所である。

人間の現実はつい最近まで、基本的に身体という、共通の構造を持つメディアのみで作られていた。つまり、「身をもって知る」「体で覚える」ことが現実の保証であり、だから、我々は共有の規模が大きくて強度が高く、長期間通用するイメージを確保して、現実として持ち得たのである。

ところが、人間の身体的な感覚や、それに基づく認識を、拡張したり変形する技術が急激に発展し普及すると、その技術の種類と強度に応じて、現実は分裂していく。

今はまだ、身体に機器を装着する段階だから、身体に保証された現実と機器による「現実」の区別は残る。しかし、それが長期間装着され続けるか、生まれた直後から装着させられ、機器が身体化すれば、この区別は無意味になるだろう。

さらに状況が先鋭化すると、我々が今まで普通に向き合っていた現実は、分裂して様々な「現実」が生まれ、それが競合し、淘汰され選別されて、我々に対してより拘束力の強い「現実」(=共有される夢)が、晴れて現実の地位に就くことになるだろう。日本の『攻殻機動隊』というアニメーション映画、『マトリックス』というアメリカ映画が垣間見せるのは、そういう世界である。