あらゆる現実は必ず破れる

だが、所詮、夢が破れるように、いかなる現実も必ず破れる。我々の現実も「現実」だと知る。これを「諸行無常」と言うのだ。ならば、真に「リアル」と言えるのは何か──。

リアルなのは、あらゆる現実は必ず破れる、という事実である。いつ、どこで、なぜ破れるのか、それは決してわからない。でも、破れる。これが仏教の言う「苦」である。いかにそれを望もうとも、確かな、我々に忠実な現実は存在しない。

したがって、我々はこの先、現実が実は「現実」に過ぎないことを肝に銘じて、それがいかに作られるのかに目を凝らさなければならない。それとは別の、誰にも共通で不変の、絶対的な現実は無い。リアルとは、「現実」が常に破れる事実を言うのであって、バーチャルとは、いつまでも「現実」が続くという錯覚である。

破れる以上は作り物である。ならば、どのように作られているのかを知ることが、より「確かな現実」を見極める方法であろう。おそらく、「確からしさ」を競う時代は、何かを理解する前に、何を信じるかを問われるようになっていく。

そのような時には、人々はより簡単で強力な「確からしさ」を欲望するようになるだろう。この新たな欲望は、それぞれの自由を誰かが説く「確からしさ」に明け渡すことを招くかもしれない。何が確かな「現実」なのかを考え選び取る困難に耐えかねて、誰かの「現実」に我が身の全てを委ねたくなるかもしれない。

次に来るのがどのような時代なのか、管見の及ぶところではないが、現実が揺らぎ、確かな「現実」が失われつつあるように見える今、はるか2500年前に「諸行無常」を説いた人物は、自分の生きていた世界と時代を、その「現実」を、どのような眼でみていたのだろうと、思えてならない。

※本稿は、『苦しくて切ないすべての人たちへ』(新潮社)の一部を再編集したものです。


苦しくて切ないすべての人たちへ』(著:南直哉/新潮社)

この世には、自分の力ではどうしようもないことがある。

そのことに苦しみ切なく感じても、「生きているだけで大仕事」と思ってやり過ごせばいい――。

恐山の禅僧が説く、心の重荷を軽くするメッセージ。