老舗・桜山ホテルで、憧れのアフタヌーンティーチームで働く涼音。
甘いお菓子を扱う職場の苦い現実にヘコみながらも、自分なりの「最高のアフタヌーンティー」企画を作り上げることができた。
そして、最初は対立していたシェフ・パティシエの達也との距離も変化していく。

――そこから3年、涼音に大きな変化がおとずれる……。

 あれ以来、一人客の常連だった西村京子(にしむらきょうこ)はあまりラウンジを訪れなくなったが、今も交流のある涼音から、転職をして頑張っているのだと聞かされたことがある。
 そこへ、空になったスタンドを満載したワゴンをのろのろと押しながら、俊生がパントリーに戻ってきた。
「長谷川君、それ、急いで洗い場に下げてきて。調理班から次のスタンドがくるから」
 ようやく篠田から解放された香織が、戻りしなに指示を出す。
「特に、七番テーブルはあまり待たせないで。あの人、本当にうるさいからね」
 篠田たちのテーブルを振り返り、香織はハーッと大きく息を吐いた。
「了解です」
 俊生は頷いて、やっぱりのろのろと洗い場へ向かっていく。瑠璃とは視線を合わせようとしなかった。瑠璃の胸がちりっと痛む。
「瑠璃ちゃん、ちょっと休憩に入らせてもらうけど、なにかあったらすぐに呼んで下さい」
 余程神経を使ったのか、香織は蒼白い顔でそう言った。
「了解ですぅ、お疲れ様ですぅ」
 瑠璃はいつもの調子で、敬礼してみせる。本当に疲れ果てた足取りで、香織はパントリーを出ていった。
「園田さんが対応を引き受けてくれたのは、チーフとして当然だと思うけど、あんまりいい気にさせないで欲しい。あんなのに常連になられたりしたら、最悪だもの」「本当、本当。ああいうお客にまで、いい顔する必要なんてないよね」
 その後ろ姿を見送りながら、サポーター社員たちがひそひそ話している。ラウンジを護る香織も大変だと、瑠璃は内心溜め息をついた。
 それからは、ラウンジを回って、お茶のお代わりに気を配った。桜山ホテルのラウンジでは、お茶はポットでサービスする。ポットが空になる頃を見計らい、瑠璃はあちこちのテーブルでメニューブックを差し出した。
 分厚いメニューブックに載っている様々なティーコレクションの中から、次に飲むお茶を選ぶのも、アフタヌーンティーの醍醐味の一つだ。
「マンゴーと薔薇の花びらをブレンドしたフレーバードティーなどいかがでしょう」
 本日のスペシャリテ、ピーチのエクレールに合うお茶を紹介していると、突然、窓側のほうから大きな声が響いてきた。
「だから、なんでこんなものがスペシャリテなんだ!」
 視線をやれば、ワゴンでスタンドを運んできた俊生が、篠田に怒鳴りつけられている。
「いいかい? エクレールっていうのはね、チョコレートかモカ風味が本流のお菓子なんだぞ。それを、ピーチ風味って、一体、どういう了見だ。前回話したシェフは、ちゃんと古典菓子に見識のある人だったぞ」
 ぼそぼそと答えている俊生の声は、ここまで届かない。
 よく見ると、俊生の肩が小刻みに震えている。
 まずい。 
 俊生が圧迫面接に耐え切れず、新卒入社に失敗したという話を、瑠璃は頭の片隅で思い出した。老婦人たちの愛情のある絡みはともかく、初老の男性からの圧力に、俊生はめっぽう弱いはずだ。
「で、ですが……、今回は白桃がテーマのアフタヌーンティーですから……」
 途切れ途切れに、俊生が反論し始める。
「は? なにを言ってるんだ。君じゃ話にならないから、シェフを呼びなさいって、さっきから言ってるだろうが」
 篠田の声がますます大きくなった。
 あのバカ。
 ヘタレのくせに、クレーマー相手に反論を試みるとは――。
 急いでオーダーをとると、瑠璃は接客していたテーブルを離れた。黒いワンピースのシームポケットに手を入れる。スマートフォンを探りながら、瑠璃は暫し考えた。
 ここで香織を呼び出せば、恐らく平謝りの方向で収拾を計ることになるだろう。下手をすれば、言い返した俊生が叱責されることにもなりかねない。チーフである香織が護っているのはラウンジで、ラウンジスタッフではないからだ。
 しかし、もしそんなことになれば、俊生はこのラウンジにもいられなくなるのではないだろうか。
 瑠璃はふと、篠田の連れの女性たちが、白け切った表情をしていることに気がついた。一人の女性に至っては、顔を赤くして俊生を怒鳴りつけている篠田をよそに、無言でぱくぱくとセイボリーを食べている。
 ひょっとするとこの二人は、かつての篠田の部下だったのかもしれない。ご馳走してもらえるならと、定年退職した上司の誘いに乗っただけなのかも分からない。
 うるさいジジイだけど、アフタヌーンティーは食べたいものねー。差しは嫌だけど、二人なら、なんとか我慢できるかもねー。
 そんなふうにほくそ笑み合う二人の姿が、脳裏をよぎった。
 前回も、部下らしい女性たちを連れていたけれど、篠田には、美味しいものを一緒に食べたいと心から思う人が、ほかにいないのだろうか。
〝哀れなものよ〟
 ふいにどこかから、鞠子の声が響く。
〝臆することなんて、一つもない〟
 そのとき、表がぴかっと光った。
 今日は朝からずっと天気が悪かったが、ついに雨が降り始めたようだ。ごろごろと低い雷鳴も聞こえる。
 瑠璃はスマートフォンを探るのをやめ、覚悟を決めて窓際のテーブルに足を踏み出した。
「篠田さま、本当に勉強になりますぅ」
 七番テーブルに近づき、瑠璃は小首を傾げて声をかける。篠田がこちらを見た隙に、俊生にワゴンを下げるよう、後ろ手でジェスチャーした。
 俊生は茫然としていたが、「早くワゴンを下げて。それから、二番テーブルさんに、マンゴーと薔薇のフレーバードティーを」と、少し強く囁くと、ぎこちなく頷いてパントリーに足を向けた。
 瑠璃をしっかりと見つめた俊生の眼の縁が、うっすらと赤くなっていた。
「なんだ、君みたいな、ものを知らなそうな若い娘に用はない。早くシェフか、そうでなければ、先ほどの女性を呼びなさい」
 篠田が不愉快そうに瑠璃をにらみつける。
「ここのラウンジのスタッフは、本当に、教育がなってない。エクレールがなんなのか、少しも分かってないじゃないか」
「申し訳ございません、篠田さま」
 如才なく篠田に近づき、瑠璃は窓の外をさし示した。
「だけど、今日はエクレールにお誂え向きの日ですよぉ、篠田さま」
 まるでタイミングを合わせたかのように、庭園の上の空にぴかりと白い閃光が走った。
「本当に最近雷が多いですけど、エクレールって、フランス語で雷っていう意味なんですよねぇ」
 瑠璃の言葉に、篠田が虚を衝かれたような顔つきになる。どうやらこのことは、彼も知らなかったようだ。
「へー、お菓子なのに、なんで雷なの?」「本当、不思議」
 連れの女性たちが、興味を惹かれたように声をあげた。
「それには諸説があるようですけど、篠田さまはもちろんご存じでいらっしゃいますよねぇ」
 瑠璃の問いかけに、篠田が押し黙る。
 桜色の唇に、瑠璃は笑みを浮かべた。きっとその笑い方は、鞠子にそっくりだったかもしれない。
 だけど、別に貶めるつもりなんてない。
 黙ってくれれば、それでいい。
 だって、若い私たちを怒鳴ることでしか自分を保てないあなたは、既に哀れだもの――。
「焼き上げたときに表面にできるひび割れが稲妻みたいに見えるから、上にかけたアイシングがきらきら光るから、美味しさのあまり稲妻のようにあっという間に食べてしまうから……そう言った説が、あるようでございますぅ」
 瑠璃は二人の女性に向けて、涼音から聞いた蘊蓄を披露した。
「へー、面白ーい」
 女性たちが、顔を見合わせてはしゃぐ。
「篠田さま、すぐにお茶のお代わりをお持ち致しますね。シーズナルティーでよろしいでしょうかぁ」
 篠田のカップが空になっていることに気づき、瑠璃は恭しく頭を下げた。
「ああ、それでいいよ」
 憮然とした表情で、篠田が顎をしゃくる。不機嫌そうではあったが、もう、ピーチ風味のエクレールが本流ではないという話を蒸し返そうとはしなかった。
 ひょっとすると、瑠璃が「ものを知らない若い娘」ではなかったことに、少なからぬショックを受けているのかも分からない。
 全部スズさんの受け売りだけどね……。
 心の裡で苦笑して、瑠璃は七番テーブルを離れた。
 パントリーへ戻る途中、入り口付近の鉄人が、軽く手を挙げて瑠璃を呼んだ。お茶が足りていなかったかとテーブルへ向かうと、鉄人はおもむろに胸ポケットからなにかを取り出した。
 瑠璃はハッと眼を見張る。
 これまでの篠田との攻防を見守ってくれていたらしい鉄人が労(ねぎら)うように差し出したのは、薄紫色の菫のシルクフラワーだった。
 庭園の緑、江戸風鈴、シダが影を落とす清流、木漏れ日を散らす青もみじ。そして、手製のシルクフラワーや、ビーズアクセサリー。
 数珠つなぎに、画像投稿サイトの美しい写真が甦る。
「クリスタさん?」
 思わずアカウント名を呟いた瞬間、鉄人が少し驚いた顔になる。
「あのすてきなインスタグラムの……」
 しかし瑠璃がそう続けると、鉄人は合点がいったようににっこりと笑い、
「はい」
 と深く頷いた。

 

 

 雨上がりの緑の匂いがする。
 篠田一行を含む第一弾のゲストを送り出してから、瑠璃は昼休憩のためにバックヤードに入った。外の空気を吸いたくて、珍しく、出窓をあけてみた。
 雨はやんでいたが、旺盛に茂る木々の葉から、時折雫が落ちる。分厚い雲が流れ、くすんでいた緑が輝きを取り戻していくのを眺めながら、瑠璃は大きく深呼吸した。
 それにしても――。
 シームポケットから、菫のシルクフラワーを取り出す。
 あのお洒落なアカウントの主が、まさか中年男性だったとは思ってもみなかった。でも、考えてみれば鉄人は、季節ごとにこのホテルを訪れているのだ。
 紅葉、椿、桜、新緑、蛍、清流と、最高のシーンを切り取っていても不思議はない。
 ちょっと冴えないオジサンが、庭園の美しさに一つ一つ眼をとめていたり、こんなに可愛らしいシルクフラワーを手作りしたりしているところなど、なんだか想像できないけれど。
 すてきな淑女や紳士の真骨頂は、性別ではないのかもしれないと瑠璃は考えた。
 実のところ、こうした思い込みで見えなくなってしまっている真実が、些末なものから大きなものまで、この世界にはたくさんあるのかもしれない。
 出窓をあけたまま、瑠璃はテーブルに着く。今日は秀夫が休みなので、コンビニエンスストアでおにぎりを買ってきた。
 早めに食事を済ませてラウンジへ戻らなくてはならない。午後からもたくさんのゲストがやってくる。
 瑠璃がツナマヨネーズのおにぎりを食べていると、控えめなノックと共にバックヤードの扉があいた。同じようにコンビニの袋を下げた俊生が、瑠璃の姿にハッとしたような顔になる。
 気まずい沈黙が、バックヤードに満ちた。
「昼?」
 瑠璃が言わずもがなのことを口にすると、俊生は無言で頷いて、テーブルの一番端の席に座った。
 どうしよう……。
 なにかを話しかけるべきだろうか。それとも、さっさと食べ終えて、部屋を出るべきだろうか。
 ぐるぐる考えていると、突然、俊生がテーブルに身を乗り出した。
「あ、あの……!」
「ああん? なにっ?」
 緊張のあまり、攻撃的な声が出てしまう。
 俊生は一瞬怯んだが、覚悟を決めたように瑠璃を見た。
「先ほどは、ありがとうございました」
「なにが」
「助けていただいて」
「別に」
「本当に助かりました」
「だから、別に!」
 一体なんなの、このやりとり。
 瑠璃は内心、頭を抱える。
 私は陽キャでパリピの瑠璃ちゃんなのに。なんで、こんな陰キャのオタク相手にうまく話ができないの? なんで、こんなに緊張してるわけ?
 要領だけはいいはずなのに……。
 おにぎりを無理やり口に押し込むと、瑠璃は立ち上がった。これ以上二人きりでいることに、耐えられそうになかった。
「林先輩!」
 しかし、部屋を出ようとした瞬間、俊生に呼びとめられた。
「林先輩が必要です」
「はあ?」
 思わず聞き返すと、俊生が耳まで真っ赤になる。
「いや、そうじゃなくて。そ、そういう意味じゃないんですけど……」
 しどろもどろになりながらも、俊生は懸命に続けた。
「前に、林先輩は自分のことを、ラウンジに必要不可欠な人材じゃないとか言ってたじゃないですか。あれ、全然違いますよ。林先輩がいなくなったら、ラウンジは持ちません」
 俊生が席を立ち、瑠璃のところまでやってくる。眼の前に立たれて、瑠璃は焦った。
 こいつ、こんなに大きかったっけ。
 いつも背中を丸めてワゴンを押している姿ばかり見ているせいか、俊生の上背の高さに改めて驚く。
「林先輩、いつも周囲をよく見てくれてるじゃないですか。俺がとろいのもカバーしてくれてるし、ほかのサポーターさんたちがお喋りしてるのをやんわりとめてくれるし、園田チーフと山崎シェフの衝突が決定的にならないように、いつだって気を配ってくれてるじゃないですか」
 真剣な表情で、俊生は瑠璃を見つめた。
「そんなことできる人、林先輩しかいません。自分のこと、ただのパリピとか言うの、やめてください。林先輩は、このラウンジに必要な人です。だから……」
 一瞬言葉を呑むと、俊生が思い切ったように言う。
「身売りするみたいに、駐妻になるのやめてください!」
「うっせえっ」
 反射的に叫んでいた。
「言われなくても、駐妻なんかならねえよ。っていうか、婚活失敗した!」
 その途端、俊生の表情がぱあっと一気に明るくなる。
「失敗したんですかぁ。そうですかぁ」
「なに、嬉しそうな顔してるんだ、眼鏡!」
 思い切り怒鳴りつけたのに、俊生は心底嬉しそうに満面に笑みを浮かべた。
「それじゃあ、まだまだラウンジにいていただけますよね」
「たりめーだろ。婚活失敗したんだから」
「いやあ、よかったぁ。失敗して、よかったぁ。林先輩がふられて、本当によかったぁ」
「てめえ……」
 瑠璃は眉を逆立てかけたが、不躾なほど「よかった」と繰り返している俊生の様子を見ていると、胸の中にずっとかかっていた靄が、不思議と綺麗に晴れていくのを感じた。
 どうして?
 俊生を傷つけたことに深く傷つき、俊生が喜んでいることに深く安堵している自分を認め、瑠璃は戸惑う。
 これじゃ、まるで……。
 私は要領のいい、陽キャでパリピの瑠璃ちゃんなのに、こんな調子はずれの陰キャのオタクの顔色や動向に、一喜一憂してるだなんて。
 世の中は、なんてままならないんだろう。
 ハイスペに近かった敬一にはどう思われようとまったく構わなかったのに、年下で非正規で寝癖で眼鏡でとろくて、おまけに鉄っちゃんの俊生に嫌われてしまうのは怖い。
 そう自覚した瞬間、はたと気づく。これまで契約のために婚活をしてこられたのは、己の臆病さに目をつぶっていたからだ。
 安全圏から理想の男性同士の恋愛を眺めて妄想にふける、BL好きの女性たちのことを、自分は全然笑えない。
 現実から目を背けていたのは、私も同じだ。
 ああ、恋って怖い。
 その段階の向こうの結婚は、もっともっと怖い。
 一足飛びに、人の心は通わない。ときに、傷つけ合ったり、誤解をし合ったり、諍いをしたり、面倒な段階を経ることなしに、他者との本当の関係は築けない。
 そこに、近道(ショートカット)はどこにもない。
 それでも瑠璃は、段階を踏んでいきたいと思える相手が眼の前にいることに、悔しいけれど、喜びを感じてしまう。
 その人から、「必要だ」と肯定してもらえたことに、眼と鼻の奥がじんと熱くなる。
 ふいに部屋の中が明るくなった。出窓から、柔らかな光が差し込んでいる。
 瑠璃と俊生は、自然と窓辺に近づいた。
「あ! 林先輩、見てください」
 俊生が指さした先に、虹がかかっている。
 赤、黄色、水色……。滲むようなグラデーションが、木々の上に緩やかなアーチを描いていた。
 激しい稲妻と雨の後、美しい虹を生む自然の摂理に瑠璃は打たれた。願わくは、人と人との諍いも、こんな結果に終わって欲しい。
 この虹に、たくさんの人たちが気づきますように。
 その中に敬一や鞠子も交じっていればいいと、心のどこかで小さく願う。
「晴れましたね」
 にっこりと見下ろされ、瑠璃はやっぱり悔しくなる。
 悔しいけれど、嬉しい。嬉しいけれど、怖い。怖いけれど、胸が高鳴る。
 この先は、きっと厄介だ。
「うっせ」
 頬が赤くなるのをごまかすように呟き、瑠璃は俊生と並んで虹を見上げた。

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