それでもどうにかこうにか、乗り越えていかなければ。なぜ私がこんな目にと、嘆く時期はとっくに過ぎた。時次郎がいずれかの施設に落ち着いたあとには、事業継承の手続きを進めるつもりだ。
時次郎からは、すでに了承を得ている。「まねき猫」を引き継ぐつもりだと伝えると、時次郎は「ものずきな」と言いながらも目を潤ませた。
おっしゃるとおり、物好きに違いないと明日美自身も思った。だけどもう、後戻りをするつもりはなかった。
ともあれ、なにをするにも必要なのは体力だ。デスクワークが主体だったころに比べると、明日美の食欲は凄まじい。大盛りの中華定食をぺろりと平らげて、会計を済ませて店を出る。
「ごちそうさん」
先に外に出ていた求が、満足そうに腹を撫でて礼を言った。
赤羽一番街の通りである。建ち並ぶ居酒屋は呑兵衛のために、今日も昼間から店を開けている。明かりのついていない赤提灯を揺らして、爽やかな秋風が通り過ぎていった。
服装も秋物に改まり、溶けそうに暑かった夏の記憶はすでに遠い。
「あら、明日美ちゃん」
八百久の前を通りかかると、店番をしていたヒロシの母親が手を振ってきた。
「こんにちは、おばさん」と、手を振り返す。
キャップ帽で顔を隠し、知り合いに会いませんようにと足早に歩いていた明日美の姿は、もうなかった。
荷物が少ないぶん、荷解きも難なく終わるはず。
だから今日はもういいよと別れようとしたのに、「まだ終わってないだろ」と言って求もついてきた。店の前に軽トラを長く停めておけないから、荷物はすべて一階店舗に運び入れたままになっている。
他のものはともかく、チェストを二階に上げるのは一人では厳しいかもしれない。ありがたく厚意に甘えることにして、「まねき猫」まで戻ってきた。
「あれ?」と、店の前で明日美は首を傾げる。入口のシャッターが、半開きになっている。
昼食に出かける前に、たしかに下まで閉めたはず。シャッターの向こうの引き戸に手をかけると、鍵をかけておいたはずなのに、するりと開いた。
ひかりが来ているのだろうかと訝りながら、シャッターを潜って中に入る。そのとたん、凄まじい破裂音がいくつも起こった。
「わっ!」と後退り、腰を抜かしそうになる。パーティークラッカーが弾けたのだと、少し遅れてから気づいた。
「はい、お帰り」
ひかりに「タクちゃん」に「宮さん」、それからヒロシまでが、空のクラッカーを手に笑っている。カウンターには焼酎のボトルが出ており、すでに飲みはじめているようだ。
「びっくりした。なにごとですか」
「なにって、引っ越し祝いに決まってんだろ」
あとから入ってきた求が、飄々と答える。彼らが集まることを、前もって知っていたのだ。
「ついでに賞味期限の怪しいものを、片づけちゃおうと思って」
ひかりはエプロンをつけて、厨房に立っている。甘辛いにおいがすると思ったら、売れ残りのマグロの切り身を葱と共に醤油で煮ていた。
「あなたたち、ただ飲みたいだけでしょう」
なにかにつけて、この人たちは集まって酒を飲みたがる。引っ越し祝いなんてのは、口実だ。
「まぁいいじゃねぇか。花が咲いても、月が出ても、雪が降っても、酒を酌み交わすのが文化ってもんだ」
擦り切れたキャップ帽の鍔を後ろに回し、「タクちゃん」が「雪月花のとき~」とでたらめな節をつけて歌っている。その前に「宮さん」が、焼酎の水割りを作って置いた。
「一応、なにか手伝えることはないかと思って来たんだけどね」
壁際に積んでおいた荷物は、すでにない。四人で手分けして、二階に運び上げてくれたようだ。
「ああ、ありがとうございます」
「なぁに、いいってことよ」
礼を言うと、ヒロシが鷹揚に腹を揺すった。傍らに置いてある段ボールは、引っ越し祝いとして持ってきた野菜の詰め合わせだという。
「じゃあ俺、野菜スティック作りますよ」
エプロンを手早く身に着けて、求もまた厨房に入る。胡瓜をサッと洗ってスティック状に切りながら、思い出したようにつけ加えた。
「そういやアヤトも、学校が終わったら立ち寄るってさ」
一昨日の日曜日、アヤトは昼ご飯を食べにきていた。そのころにはもう、「引っ越し祝い」の話は出ていたようだ。
「アヤトといえばユリエさん、借金完済できたらしいわね」
ひかりがねぎま鍋と取り皿をカウンターに並べてゆく。最後にヒロシの前に皿を置いて、「知ってた?」と顔を覗き込んだ。