〈二十〉
大きな荷物は、ほとんどない。
家電は「まねき猫」にあるもので充分と割り切って処分したし、ベッドも狭い階段を通すのは大変そうだと捨ててしまった。
家具らしきものはクローゼットに入れてあったチェストと、座椅子くらいのもの。あとは衣類や雑貨などの段ボールが少々。
実に簡単な引っ越しだった。手早く荷物を下ろし、軽トラは返却した。
「なんだ。こんなにお手軽なら、さっさと移ってくりゃよかったのに」
求のリクエストにより、昼は近所の中華屋の定食になった。黒酢酢豚の大きな肉の塊を頬張ってから、求は冷たいビールで流し込む。見ているだけでも、気持ちのいい食べっぷりだ。
明日美はエビチリ。丁寧に下処理がなされているらしく、口の中でエビがぷりっと弾けた。
「まぁ、そうなんだけどね。ここのところ、忙しかったからさ」
コールセンターは九月いっぱいで辞めており、明日美は今や名実共に「まねき猫」の店長だ。基本的に、求とひかりを含めた三人。それから助っ人の「タクちゃん」で店を回している。
週末の勤務で仕事には慣れたつもりでいたけれど、週六ともなるとそれなりにきつい。仕込みも含めると飲食店は勤務時間が長いし、立ち仕事だ。しかも唯一の休みである火曜日は、介護施設巡りでほぼ潰れた。
「施設、まだ決まんねぇの?」
「うん。片っ端から、待機登録だけはしてるんだけどね」
時次郎の、退院後の落ち着き先はまだ見つかっていない。
特別養護老人ホームと、費用が比較的安めな介護付き有料老人ホームに絞って、休みのたび三カ所ずつ見学に回ってみたのだが。どこも待機者が多く、登録をしてもすぐには入れそうにない。
「時さんはなんて?」
「私に任せるって」
施設とひと口に言っても、実際に見て回ってみると、雰囲気は様々だ。設備は新しくて綺麗でも、働いているスタッフの態度がとげとげしいところ。施設長が若すぎる点に不安はあるが、なんとなくアットホームに見えるところ。共有スペースに集まっている入居者に笑顔がなく、静まり返っているところ――。
何カ所も見て回っているうちに、明日美の主観だけで決めてしまっていいのだろうかと心配になった。時次郎はもう、自分の意見が言えるまでに回復している。彼なりに、優先したい条件があるかもしれない。
だが時次郎は、分厚い資料を開いて説明をはじめた明日美を、面倒臭そうに遮った。「どこでもいい。まかせる」と、投げやりに右手を振ったものだ。
九月の下旬に届いた要介護認定の判定結果によると、時次郎は要介護五。
仕事をしながらの在宅介護は、難しいレベルだ。そのことは、当人も理解しているらしい。なにより両親の介護に長い年月を費やしたひかりのケースを知っているせいか、「家に帰りたい」とは言わなかった。
「本当に、どこでもいいの?」
念を押すと、時次郎は目だけで頷いて、こう言った。
「おまえに、おむつをかえられるのだけは、いやだ」
それが彼の矜持であり、彼なりの気遣いなのだろう。
「もっとも、選り好みしてる余裕なんてないんだけどね」
ぷりぷりのエビを咀嚼して飲み下し、明日美は小さくため息をつく。
どこの施設も入居の見込みが薄いため、先週は荒川を越えて埼玉へと足を延ばした。
それでも満員なのは、都内と同じ。待機人数が比較的少ないところは、交通の便が悪かった。四の五の言っていられないと、やはり待機登録だけはしてきたのだが。
「退院までに間に合わなかったら、いったんお高い施設に入ってもらうしかないかな」
悲しい現実だが、金に糸目さえつけなければ、入居可能な介護施設なんか今すぐにでも見つけられる。中には入居一時金が何千万円もかかる施設もあって、資料を見ただけで眩暈がした。
「大丈夫、いざとなりゃ『宮さん』が出してくれる」
「ありがたいけど、また借金が増えるだけじゃない」
時次郎名義の借金、三百万円だってまだ返済の目途はついていない。問題はまだまだ山積みで、頭の痛い日々が続きそうだ。