緊急事態宣言下で仕事がままならなかったころ、ユリエは生活費を街金から借りていた。それを完済し終えたなら、暮らしも少しは楽になるだろう。
「う、うん」
問われたヒロシは、歯切れ悪く頷く。なんでも「困っていることがあるなら、僕がいつでも力になります」と申し出て、「大丈夫です」とユリエにあっさり断られたらしい。彼の好意は、どうやら空振りに終わったようだ。
「よしよし、元気出せ。今日は飲もう」
「水割り、うんと濃く作ってやるよ」
しょんぼりとうつむくヒロシの肩を、「タクちゃん」と「宮さん」が両側から支える。いつの間にやら引っ越し祝いが、ヒロシを慰める会になりつつあった。
本当に、目まぐるしい。「まねき猫」があるかぎり、明日美には落ち込んでいる暇もない。
「明日美さんは、レモンサワー?」
「宮さん」が振り返り、焼酎の飲みかたを聞いてくる。
「はい、薄めで」
肩にかけたバッグの中から、微かな振動音が聞こえる。「宮さん」に返事をしてから、明日美は慌ててスマホを取り出した。
画面に表示されているのは、03からはじまる未登録の番号だ。「飲み会」に背を向けて二階へと向かいながら、「はい」と応じる。
「あのこちら、篠崎明日美さんのお電話で間違いないでしょうか」
まだ若そうな、男の声だ。
「ええ、そうですが」と答えると、相手は「ゆずり葉苑」の施設長と名乗った。
待機登録をしておいた、板橋にある施設だった。
〈二十一〉
目覚ましのアラームを止めて、起き上がる。布団から出ると、あまりの寒さに肩が震えた。
断熱性が低い古い家は、夏が暑けりゃ冬は寒い。明日美は久留米絣の半纏を羽織り、前を掻き合わせるようにして階下に向かった。
午前七時。誰もいない店舗のエアコンをつけて、部屋が暖まるまで足踏みをする。寒いはずだ。なにせ昨日がクリスマスである。
目の前の雑事に追われるうちに、月日は矢のように流れてゆく。先週の火曜日にはついに、時次郎が板橋の特別養護老人ホームへと移った。
介護施設への入所は申し込み順ではなく、緊急性の高い順だと聞いてはいたが、すんなり決まるとは思っていなかったから、空きが出たと連絡がきたときには驚いた。「ゆずり葉苑」は、もともと時次郎が入院していた病院と連携しているようで、優先的に順番が回ってきたらしい。
施設長が三十代半ばと若く、そのぶん溌剌と激務をこなしている。利用者同士の交流も盛んなようで、人と交わるのが好きな時次郎にはいい巡り合わせだったのかもしれない。同世代の入居者とは、さっそくウマが合っているようだ。
この先まだなにが起こるか分からないが、ひとまずは肩の荷をひとつ下ろせた。
次は事業継承の諸手続きで、こちらは「宮さん」の知り合いの税理士に相談している。税制が複雑で、なかなか理解が追いつかない。世の事業者は、よくもまぁこんな煩雑な手続きをこなしているものだと感心する。
「よし!」
体がだんだん、温まってきた。今日も頑張るぞと、明日美は両側から挟むように頬を叩く。
カウンターには、左手を上げた白いまねき猫。十号サイズのそれは、人との縁を繋ぐお守りだ。
「あれ?」
小さく呟き、明日美は耳を澄ませる。扉をノックする音が、微かに聞こえたような気がした。
間を置いて、もう一度。気のせいじゃない。勝手口のドアだ。
そういえば、今日から冬休み。アヤトかとも思ったが、彼ならノックなどせずに入ってくる。誰だろうと首を傾げながら、明日美はそっと窺うようにドアを開けた。
外に立っていたのは、痩せぎすの女の子だった。印象的なのは、大きな目。警戒の色を滲ませながら、こちらをじっと見上げてくる。
小学校の、四年生くらいだろうか。肩まで伸ばした髪はもつれ、この寒空にコートを着ていない。ピンクのトレーナーもサイズが小さいようで、袖からすっかり手首が出ている。
誰から聞いて来たのだろう。その風貌から家庭の事情を推し量るのは早計だが、これだけはたしかだ。痩せっぽちのこの子は、お腹を空かせている。
野良猫のような目をした女の子。彼女に向けて、明日美は勝手口のドアを大きく開いた。
「寒いから、入っておいで。あったかいスープを作ってあげる」
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