徳島海軍航空隊の基地で野点をする大宗匠。携帯用の茶箱でお茶を点て、振る舞ったという(写真提供=裏千家)

徳島での訓練が終わると、誰からともなく「千ちゃん、お茶にして」と。私は常に携帯用の茶箱を持って移動していたのです。いつものようにみんなで集まり、野点(のだて)をしました。

お菓子は、配給のようかん。「うまいなあ、千ちゃん」「わしのおふくろ、お茶やっててな。正座させられるし、お菓子も我慢せなあかんし、かなわんなあと思うてた。でも、おふくろのお茶がもう1回、飲みたいなあ」。

それを聞いていた西村が、「おふくろに会いたいなあ」とボソッとつぶやいたかと思うと勢いよく立ち上がり、故郷を向いて「おかあさーん!」と叫んだのです。最初こそ笑っていたみんなも、堰を切ったように「おかあさーん!」「おかあさーん!」と声を限りに叫びました。

忘れられないのは、京都大学出身の旗生良景(はたぶよしかげ)の言葉です。「千ちゃん、俺がもし生きて帰ってこれたら、お前のお茶、ほんまもんのお茶室で飲ましてくれや」。そのとき、「あ。帰れないのだ。全員、死ぬのだ」という思いが胸に迫りました。今でも旗生の「千ちゃん」という声がはっきりと聞こえます。

1945年5月、約60名の仲間と白菊特攻隊として、鹿児島県の串良(くしら)へ。しかし、私が出撃することはありませんでした。寸前に待機命令が出たのです。「どうか行かせてください!」という必死の懇願も空しく、予科練習生の教官として松山海軍航空隊へ。そのまま終戦を迎えてしまいました。

翌年5月1日。文部省に書類を出すために東京の街を歩いているときでした。目の前を「演劇労働組合」と書かれた旗を掲げた行列が横切ります。「ああ、今日はメーデーか」と思っていると、「千ちゃーん」という聞き覚えのある声が。

「演劇労働組合から呼ばれることなんてないのに」と声のするほうを見ると、旗の向こうに死んだはずの西村が立っているではありませんか。思わず駆け寄り、泣きながら抱き合いました。文部省での用事などすっかり忘れ、私も新橋まで一緒に歩いて。

西村は出撃したものの不時着により命を取り留めたのです。このときばかりは、生き残って再会できたことを心からうれしく思いました。