一わんのお茶を世界70ヵ国へ

1949年、千玄室さんは大徳寺の僧堂で禅の修行に入る。代々、次期家元が若宗匠の格式を得るために行う千家の伝統だ。軍隊が「命令」の世界だとしたら、僧堂は「無言」の世界。粗食による空腹や坐禅中に襲われる睡魔にも苦しんだが、何を尋ねても沈黙で返す先輩修行僧の無視が一番つらかったそうだ。

厳しい修行を通して「平常心とは何か」を学び、翌年、若宗匠に。十五代継承者として正式に認められた。

――修行後も、なぜ自分だけが生き残ったのかという、忸怩たる思いを抱えていた私に転機が訪れたのは1951年。約2年間のアメリカ行脚に出発したときです。きっかけは、CIE(連合国軍総司令部の民間情報教育局)から、アメリカに茶道を紹介してはどうかという話が来たこと。

父に「行くか」と聞かれたときは、「行きませんよ! 仲間はみんなアメリカとの戦争で死んだのです。絶対に行きません」と言ったものの、修行させていただいた大徳寺管長の後藤瑞巌(ずいがん)老師に「日本の伝統を伝えてきなさい。そして負けた国の人間の目で勝った国を見てきなさい」と諭され、決断しました。

当時の日本はアメリカの占領下。パスポートなんてものはありません。「占領国民として、保護されたし」と書かれた紙きれ1枚を持たされて、日本人のネットワークを頼りに、都市から都市を旅しながら各地の大学や文化施設でお茶のデモンストレーションをするのです。

激しい黒人差別を目の当たりにし、アメリカの民主主義なんてこんなものかと失望もしました。同時に茶の湯の教え「和敬清寂(わけいせいじゃく)」の、どんな人も区別せず、互いを敬いながら、和やかにお茶をいただく精神のすばらしさを再認識することにもなったのです。

これが私の今日まで続く「茶の湯外交」の始まり。結婚後は、妻と「一わんからピースフルネスを」を理念に、世界のさまざまな国や地域を訪ねました。「ピースフルネス」は世界に満ちあふれんばかりの平和をという願いから生まれた造語。戦争という地獄を二度と繰り返すまい、という決意も込めています。

パスポートのないアメリカ行脚から73年、妻を亡くした後も一人で旅を続け、訪れた国は70ヵ国に上りました。