千利休から数えて十五代目となる茶道・裏千家の千玄室大宗匠。戦中は特攻隊に志願し、戦後は国内外で茶の湯を通じて平和を訴える活動を続けています(構成=野田敦子 撮影=霜越春樹 写真提供=裏千家)
別れを覚悟した特攻隊での茶会
1943年12月、学徒出陣により第14期海軍飛行専修予備学生の試験に合格して大日本帝国海軍に入隊。
出征の前夜、十四代家元である父は息子を茶室に呼び、千利休が自刃した刀を置いて、「よく拝みなさい」と言ったという。「千家の長男であることを忘れるな」と伝えたかったのだろう。母の嘉代子さんはそっと席を離れ、琴で「六段」を奏でた。断腸の思いだったに違いない。
――舞鶴海兵団では、試験、試験、また試験。これらを通過した者だけが海軍の予備士官として採用される仕組みなのです。合格した私は、茨城県の土浦海軍航空隊へ。その後の試験で私を含む約700名が合格し、徳島海軍航空隊に転属、陸上偵察機の訓練を受けることに。
それからは、もう、大変なことでした。1年半かかる訓練を「君たちは10ヵ月でやれ」と命令され、目的地までの航法、通信、暗号解読、射撃、爆撃、写真撮影などをたった一人でやらされる。しかも、上官たちに「お前たちは、死にに来たんやろ」「全員、死にに来たんや」と繰り返し言われるのですから。つらかった。
そこで親友になったのが、後に俳優になり、テレビドラマ『水戸黄門』で2代目水戸黄門を務めた西村晃です。背の高い私と背の低い西村は、まさに凸凹コンビ。出征前に結婚していた西村は、よく「俺は死にとうない」とつぶやいていましたよ。
1945年3月、「本土決戦を前に特別攻撃隊が編成される場合に備え、熱望・希望・否のいずれかに丸をつけよ」という紙が配られ、私も西村も「熱望」に丸をつけました。「否」を選んだら、かえって最初に突撃させられるのではないかと思ったからです。その1週間後、「全員、特別攻撃隊として出撃する」と発表されました。いわゆる特攻隊です。