父であり、兄であり、人生の師でもあった
渡さんと最後に会ったのは18年の春でした。故・石原裕次郎邸で石原プロ解散を巡る話し合いが行われた折にね。その後も僕は渡さんに定期的に電話をかけていて、最後に話したのは亡くなる1週間ほど前。短い会話のあと、いつものように「ひろし、ありがとうな」と言ってくれたのですが、その声は弱々しく、話すこと自体が苦しそうで……。
結局のところ、僕は渡さんが亡くなった翌月、9月10日の月命日に、お宅に伺ってお焼香をさせていただきました。遺影は宝酒造のCM撮りのときのもので、素敵な笑顔でした。手を合わせながら「ありがとうございました」と伝えました。本当に感謝しかありません。渡さんは僕のすべてだったというか……。父であり、兄であり、人生の師でもありました。もしも来世というものがあれば、再び渡哲也という人の舎弟になりたいと思っています。
今の自分があるのも渡さんのおかげです。初めて会ったときのこと、鮮明に覚えています。1979年、当時僕は29歳でした。その日は東京・神宮外苑の聖徳記念絵画館で、僕にとって初のドラマ出演となる『西部警察』の記者会見が行われることになっていました。
その前に会いたいと渡さんが言っておられるということで、僕は約束の時間より少し早く、指定された秩父宮ラグビー場近くの喫茶店へ向かったのです。ところが渡さんはすでに到着していた。そればかりか僕の姿を見るなりパッと立ち上がって、「舘君ですね? 渡です」と握手を求めて手を差し伸べてくれました。
それまで僕は東映で映画の撮影に臨んでいたのですが、当時の東映の俳優さんって……中には挨拶に行ってもソファに寝転んだまま「おぅ、頑張れや」みたいな感じの人もいました。僕はそういうものだと思っていたので、渡さんと会って、こんなに紳士的なスターがいるんだと衝撃を受けました。