稀有な「闘う貴族」として

風狂の人花山院との確執も有名だ。

伊周と花山院との間で女性(藤原為光の娘)をめぐるトラブルがあり、兄伊周に与した隆家は院を威嚇、誤射の不祥事を起こしている。

伊周・隆家兄弟はそのため流罪となった。『栄華物語』『大鏡』などにも散見される出来事だった。刀伊事件の十数年前のことである。

刀伊の来襲にさいし、「帥、軍ヲ率ヒ警固所ニ到リ合戦ス」(『小右記』)とあるのも剛直さの表れだった。

貴族たる隆家自身が警固所近辺で戦うことは、稀有のことだった。このような規格外の行動力のためだろうか、後世には隆家を流祖と仰ぐ武士団も少なくない。

闘う姿勢を保持する隆家の行動は、わが国の外交の危機に大いに役立ったようだ。

*本稿は、『刀伊の入寇-平安時代、最大の対外危機』の一部を再編集したものです。


刀伊の入寇-平安時代、最大の対外危機』(著:関幸彦/中公新書)

藤原道長が栄華の絶頂にあった1019年、対馬・壱岐と北九州沿岸が突如、外敵に襲われた。東アジアの秩序が揺らぐ状況下、中国東北部の女真族(刀伊)が海賊化し、朝鮮半島を経て日本に侵攻したのだ。道長の甥で大宰府在任の藤原隆家は、有力武者を統率して奮闘。刀伊を撃退するも死傷者・拉致被害者は多数に上った。当時の軍制をふまえて、平安時代最大の対外危機を検証し、武士台頭以前の戦闘の実態を明らかにする。