都の状況

ところで、刀伊事件勃発の時期、都はどのような状況だったのか。参考のために『小右記』の寛仁3年(1019)3月から4月頃の記事を眺めておこう。

3月初旬に石清水臨時祭がなされたが、実資は眼病で参内を取りやめたこと、さらに中旬には東宮(敦良親王)宅から出火があったこと、数日後には道長が病んで出家したこと、さらに子息教通(頼通の弟)も腫物で悩んでいたこと、下旬にはかつて三条天皇の皇后だった藤原せい子の出家のことなどが見えている。

またこの時期、実資邸の北側の地で不審火が続発、常陸介藤原惟通の娘が焼死するなど、都大路での盗賊の放火が頻発していたこと、「当時、スデニ憲法ナシ、万人膝ヲ抱ヘ仰天ス(今は法の効力もなくなり、人々は天を仰ぎ嘆いている)」といった状況が続いていた。

4月中旬にも放火・盗賊の記事が散見、御所の北道での追剥、襲芳舎(内裏にあった御殿の一つ)や小野宮の東方での放火等も重なっていた。「連夜京中往々、斯ノ事アリ(連夜にわたり京中で不穏な事件が頻発した)」と見えている。