普通を通れない人は可哀想という偏見

近年では、個人のライフスタイルや価値観、セクシャリティの多様性への理解が進んできた。それでも、やはり、恋愛、性行為、結婚、出産という強固なレールが引かれている。本来、自分が幸せだと思える人生の必要要素は、自ら取捨選択し、組み立てていくものだと思う。それなのに、社会はこれが普通というものを規定し、否応なくそこに組み込もうとしてくる。だから、恋愛しないなんて可哀想、付き合ったら性行為はするもの、結婚しない人は訳アリの人、所帯を持ってこそ一人前、子どもを持つことが人生最大の喜び、と個人の幸せに必要な要素を勝手に決められて、そこを通れない人は可哀想だとか、不完全だとか言われてしまう。

普通から外れた人が、劣等感を感じたり、苦しみ、追い詰められたりするのは、なにも本人たちが勝手にそう思っているのではなく、世の中の同調圧力や、普通に乗れない人は異常、可哀そうな人、という偏見の目に晒されることで、そう思わされていくのだろう。

『死ねない理由』(著:ヒオカ/中央公論新社)

私は、昔から、いわゆるこれをやれば幸せと言われるものが、どうしてもわからなかった。子どもが欲しいと一度も思ったことがないと友達に言うと、「なんで? 普通は欲しいものじゃない?」と不思議がられた。

今でも正直、自分のことがよく分からない。セクシャリティに関することで、新たな概念が生まれて名前が付けられたりカテゴライズされることが増えたが、まだこれこそが自分のアイデンティティと言える場所を見つけられていない。深い森にひとり迷い込んだような、途方もない孤独感を感じ、底なしの絶望に引き込まれていきそうになる瞬間が何度もある。これから先、共感しあえる人は現れるのだろうか。

人々は、どうしたって分かりやすさを求める。でも、恋愛も性行為もするか恋愛も性行為もしないか、この二択ではない。恋愛するけど性行為はする、恋愛はしないけど性行為もする、も当然あるし、

これ以外にも、ひとそれぞれの恋愛への至り方や、好き、嫌い、苦手、快・不快があって、膨大なグラデーションが広がっている。乱暴にカテゴライズできるものではないし、分かりやすさを求めることは暴力的だ。