今注目の書籍を評者が紹介。今回取り上げるのは『センスの哲学』(千葉雅也 著/文藝春秋)。評者は書評家の中江有里さんです。

なくても生きられるがあれば、豊かに暮らせるもの

「センス」という言葉に弱い。いや、本当は怖い。なぜなら「センス」がないから。

たとえば家具をそろえる時。テーブル、ソファを選ぶのが怖い。それなりに高価だし、気に入らないから、とすぐに買い換えられない。誰か「センス」のいい人、選んで!

そういうわけで自分のセンスのなさを自覚しつつ本書を手に取った。帯に「センスが良くなる本」とある。

まず本書における「センス」の定義とは「直観的にわかる」こと。「センスが無自覚な状態」を自覚するという表現は「我思う、ゆえに我あり」的だ。つまりセンスに自覚的でないことを自覚する。無自覚な状態から脱して意識的になることが良いとも言えないらしい。なんだか禅問答のようだ。

もっともわかりやすいと感じたのは「センスとはヘタウマ」というフレーズだ。

上手であることよりヘタウマ。うまい人の再現ではなくオリジナルの表現への挑戦。

子どもの描いた画をヘタウマと言ったりするが、誰の真似でもないオリジナルの画だ。ここを突き詰めることで「センス」が磨かれる。

文章にも「センス」が存在するという。そして小説の構造や読み方にも「センス」が関わってくる。すべてを書かなくても、読み手が読みながら自然に言葉にない欠如を埋めていく、というのには頷いた。私自身、書く際にすべてを文章化せず、あえて書かない部分を作る。これも「センス」と呼ぶのかも?

「センス」が良いもののデータは山ほどある。また脳内では忘却、省略、誇張といった処理が行われる。ビッグデータは大きくなる一方、自分の記憶に残るものは、自分で残さないと忘れてしまう。「センス」がなくても生きられるけど「センス」があるほうが豊かでいられそう。

「センス」を再確認したい人、私と同じく「センス」がわからない人にもおすすめ。