「普通に」育っていくことを強く願う親たち
発達障害に対する世の関心が高まる中、私自身も知的障害を伴う自閉症の子どもに強い関心がある。発達障害の専門家は、児童精神科医や、心を専門にした小児科医である。
私は医学生時代に発達障害のことを何一つ教わらなかったし、医者になってからも系統的に学ぶ機会はなかった。12年前に開業医になってから、専門書などの書籍を読むようになったのが実情だ。だからなおのこと自閉症児の生活を知りたい。そしてそれ以上に自閉症児を育てるとはどういうことなのか、親の心を知ってみたい。
日々クリニックで多くの親と会話を交わしていると、親が自分の子どもに最も望むのは「普通である」ということが見えてくる。軽い風邪でも「念のため」に受診をし、すくすくと育っている子でもまめに健診を受けに来る。それは親自身が安心するためでもあり、祖父母を納得させるためでもある。
どこの家庭でもやっていることをしっかりやることが親の努めと考えている人は多い。いや、「普通である」ということは世間が若い両親に迫ってくる圧力のようなものなのかもしれない。
個人的なことを言えば、それは私だって同じである。わが子が生まれたとき、私は自分の子が「普通に」育っていくことを強く願った。病気をせぬように心を配り、少し成長すれば公園デビューにドキドキし、幼稚園に上がれば妻がママ友たちとうまくやっていくことを望み、学校ではわが子に友人がたくさんできることを期待した。
そうやって「普通」で「世間並み」の道を家族が歩んでいくことは、どうしても譲れない最小限の願いである。
しかし子育ての途中で、わが子が自閉症で知的な遅れがあると分かったとき、親はどれほどの衝撃を受けるだろうか? どうやって現実を受け入れ、「普通に」想定していた未来を手放し、「世間並み」の幸福を断念するのだろうか?
私にはちょっと想像がつかない。「普通」から外れた世界にも幸福な生き方が存在するのだろうか? その生き方の中には、世間が押しつけてくる「普通」が最善であるという価値観から解放された自由が広がっているのだろうか?
そうかもしれない。私たちはあまりにも、「普通である」ことや「世間並み」であることに縛られているような気がする。もしかしたら「普通」でなくてもいいのかもしれない。その答えは、自閉症児を育てる家族の生き方の中にあるはずだ。