人とどういう縁を結ぶのか

中国においては、3世紀にすでに大きな葬儀や大きな墓が必要なのか、人間の幸せとはそんなものなのか、という議論がありました。「竹林の七賢人」の一人は、自分が死んだらその場ですぐ埋められるようにと、従者に鋤を持たせていたと伝えられます。

また別の一人は、母親を埋葬する日に豚を蒸して肴とし、酒を二斗飲んだ。それを非礼と非難する人もいましたが、彼はいざ別れを告げる段になると、「窮す」と言ってひと泣きし、悲しみのあまり血を吐き、気を失ったそうです。

つまり、儀礼に従うだけが本当の供養ではないということなのです。お墓を持っている人はお墓を通じて、たとえばお盆にみんなで集まって食事をして、祖先のことを語るのが最大の供養でしょう。

けれどお墓がない人でも、みんなで集まって故人について語ることはできるはずだし、語るなかで死者は蘇る。仏壇も、神棚も、お墓も、大切なものではあるけれど、あくまで生きている人が幸せに暮らせることが最優先されるべきだ、と思います。

生きているうちに大事にしたいのは、人とどういう縁を結ぶのか、ということです。仏教用語で、「和顔愛語(わげんあいご)」という言葉があります。これは、笑顔で、思いやりを持って人と話すという意味。和顔愛語で接するかどうかで、その人が死後、どう語り継がれるかが決まるのです。

さらには、お菓子をつくる人は、そのお菓子でどれだけ人に喜びを与えられるか。文章家なら、どれだけ人の心に届く文章を書けるか。教師だとしたら、どれだけ多くの人たちの学びになることを教えられるか。その一つ一つが、将来的に、自分が語り継がれていく縁をつくるのだと思います。

さてこの先、私が死んだらどうなるのでしょう。まだまだ上野家のお墓問題は続きそうです。