藤原氏の本流が実頼系から師輔系に
天暦3年(949年)、父・忠平の薨去のあとを受けて、実頼は藤氏長者となりました。
これで勝負あり…かというとそれが違ったのですね。というのは、実頼のお嬢さんが男子を産まなかったから。
実頼は娘の述子を、師輔は安子を、それぞれ村上天皇の女御として送り込みました。
安子が東宮に立てられた憲平親王を始め、為平親王、守平親王を生んだ。ところが述子は子どもを産むことなく、亡くなってしまった。
天暦4年(950年)には憲平親王の立太子が決められましたが、この重大事は村上天皇・藤原穏子(天皇の生母)・朱雀法皇(天皇の兄)・師輔の密談によって決定されたもので、氏長者であったはずの実頼は関与できなかったのです。
このことから藤原氏の本流は実頼系から師輔系に移り、孫の代になると、実資は道長らの後塵を拝することになった。