長年連れ添った夫・吉田喜重監督を見送って1年半。鮮やかに思い出されるのは、人見知りだった少女時代、女優としての成功とプロデューサーとしての挑戦、そして夫と過ごした幸せな時間――と、岡田茉莉子さんは言う。夫婦で映画に情熱を注ぎ続けた軌跡と現在の心境について語った(構成:篠藤ゆり 撮影:宮崎貢司)
戦争を生き延びて。初めて知った父のこと
デビュー作『舞姫』が封切られたのは1951年。もう70年以上前のことです。私はこの世代の女優としては、わりとハッキリ自分の考えを表明するほうだったと思います。自分で作品をプロデュースするなど、独立心旺盛で、物怖じしないとも言われてきました。そのせいで風当たりも強かったし、正直、生きづらい面もありましたね。
それでもここまで女優を続けられたのは、一緒に作品を作ろうと言ってくださる方が大勢いたから。本当に感謝しています。
じつは、少女時代の私は人前に出るのも話すのも苦手。病弱で、学校に行きたがらない内向的な子どもでした。父親は私が1歳のときに亡くなり、母と、母の妹の3人暮らし。
叔母が東宝の文芸部で働いていた方と結婚し、別に暮らすようになると、母が仕事に出かけている間、私はひとりぼっち。母は、母子家庭だからとバカにされたくなかったのでしょう。とても躾が厳しく、家事はほぼ私の役目でした。
母の仕事の都合で、大阪や戦時下の上海で暮らした時期もあります。上海の日本租界(日本人居留地)のアパートで、孤独を慰めようと、母の留守中に隣の家の屋根に上がって歌ったり。
すると、どこからか拍手が聞こえてくるんです。内気ではありましたが、表現者の血が流れていたのでしょうか。母は元宝塚の男役スターで、叔母も宝塚に所属。父が誰であるかは、母は私に教えてくれませんでした。