「私は翌日、一人でまたその映画を観に行きました。ええ、父を観たくて……」

日本に戻ったあとは、学童疎開も経験しています。高等女学校を受験するために疎開先から東京に帰ってきたのが、1945年3月10日。その夜、東京大空襲に見舞われました。幸い防空壕の中で生き延びましたが、夜が明けて外に出ると、一面焼け野原だったのです。

その後、叔母の夫が新潟市内にある劇場の支配人になったので、新潟に疎開することに。終戦後もしばらく新潟で暮らしました。

高校2年生になり、同級生と、戦前のサイレント映画『瀧の白糸』(溝口健二監督)を観に行ったときのこと。その夜、観てきた映画の話をしたとたん、母と叔母は目を伏せて黙り込んでしまったのです。

しばらくして母は、「その映画に映っていたのは、あなたのお父さんです」と言い、顔を手で覆い泣き出しました。私は翌日、一人でまたその映画を観に行きました。ええ、父を観たくて……。

父は、戦前の銀幕スターで、ハリウッド・スターのルドルフ・ヴァレンティノにちなんで「和製バレンチノ」と呼ばれた岡田時彦。なぜ母は父のことを、私にずっと隠していたのか。理由は聞いていませんが、「普通の子」として育てたかったのではないでしょうか。

とはいえ芸事はさせたかったらしく、私は6歳の6月6日から日本舞踊を習い始めたのです。