仕事は次から次へと決まり、いつも台本を何冊も持ち歩く生活になりました。おかげで居候生活を抜け出し、母と二人で暮らす家を用意することができたのはうれしかった。母の名字の表札がかかった一軒家に住まわせてあげるのが、私の夢だったのです。

でも、仕事には不満もありました。『芸者小夏』(1954年、杉江敏男監督)が大成功だったため、来るのは、芸者や水商売の女、アプレゲール(戦後現れた退廃的な女性)の役ばかり。

やはり私のどこかに、暗い影があったからかもしれません。同じような役ばかりやっていては、イメージが固まってしまう。もっと幅広く人間を演じたい。

そう思った私は、思い切って一人で東宝撮影所の所長に会いに行き、「これからは私をどんなふうに使っていただけるんですか?」と生意気な口をききました。確か22歳の頃です。ほんと、怖いもの知らずですよねぇ。

東宝をやめてフリーになるときも、一人で決断しました。いつの間にか、自立心が強く、偉い人に対しても臆せず自分の考えをハッキリ言う「岡田茉莉子」が育ちつつあったのです。

やがて映画産業は斜陽期を迎えますが、私は黄金期の最後の光芒を経験できました。成瀬巳喜男監督、小津安二郎監督、木下惠介監督、市川崑監督、マキノ雅弘監督、稲垣浩監督など、錚々たる監督たちと仕事ができたのはこの上ない幸せでした。

後編につづく