たどった「経過」は似ていた
早雲の代で、まず相模をほぼ制覇し、息子の氏綱の代では完全に支配する。そして三代目氏康のときに武蔵国で一番の城、川越城を落として武蔵を手に入れた。そして群馬にも影響力を及ぼしていたのですが、四代目の氏政は父の業績を踏まえたうえで、群馬を手に入れた。
おおよそ今の神奈川県、東京都、埼玉県、群馬県までを支配下においたわけです。そしてやはり後北条氏も、房総半島へは本格的に進出しなかった。そこは共通しています。
なぜかと言えば、房総との間には関東一の川、利根川が流れているのですね。スケールは違いますが、中国の『三国志』でも「赤壁の戦い」(208)で負けた曹操が「ここから先はもういい」と、長江を越えることを諦める。そして長江を国境にした国を築きます。
中国の人が日本に来て瀬戸内海を旅行した際に「なんだ、日本にも長江と同じくらい大きな川があるじゃないか」と言ったとかなんとか、聞いたことがありましたが、スケールこそ違えども、長江のように利根川が進出の壁となり、国境になったわけです。
それを家康が川そのものをぐぐっと曲げ、今の鹿島灘に注ぎ込むようにする。それまでの江戸は利根川の影響でたくさんの人が住むことのできない湿地帯でしたが、家康が大河の流れを変えたことで、居住可能にした。ただし井戸を掘っても海水しか出なかったので、井の頭から水を引いてきた。
小説家である門井慶喜先生の『家康、江戸を建てる』(祥伝社)に描かれていますが、工事に当たったのは伊奈家です。それも当主四代にわたって立ち向かった大工事でしたが、その工事以前の利根川の流れは、大変に大きかったわけです。だから鎌倉時代の北条氏も、戦国時代の後北条氏も、川は越えずに北へ北へと上がっていった。
もともと同じ伊豆出身でその姓を名乗ったくらいですから、後北条氏は、鎌倉の北条氏のことを強く意識していたことでしょう。しかも同じように関東を支配していったことで、さらに「歴史」というものを受け止めていたように思います。