九州・島津の例

そのときの北条にしてみれば「上方の武士など武士ではない。本物の武士は俺たちだ。俺たちは関東に自立する武家政権なのだ」というプライドが当然あったでしょう。

一方で上方の豊臣秀吉にしてみれば「いつまで北条は古いことを言ってやがる。時代は経済だ。経済から言えば、俺たちのほうがはるかに上だ」などと思っていたに違いない。そして東国と上方の戦いがまたここで繰り返されることになります。

関東の覇者である北条は、上方の秀吉に対して頭を下げることがどうしてもできなかったのでしょうね。

人には頭を下げなければいけない時がある北条にしてみると、東国の武士たちをまとめ上げて上方と対抗するという方法論があり得た。上方から見た関東が田舎だとすれば、さらに遠くに東北がありますが、関東の武士を取り込み、さらに伊達政宗を始めとする東北の大名を取り込めば、豊臣に対抗できるという判断があったと思う。だからこそ対立したのでしょうし。

恐らく徳川家康あたりが一所懸命「もうそういう時代じゃない。北条さん、世の中の動きを見ようよ」と説得したと思うのですが、及ばなかった。

似たようなことは、たとえば九州の島津でもありました。

秀吉は北条の前に九州征伐を行い、島津を叩きますが、その際、当主の島津義久は鹿児島第一主義でした。しかし弟の義弘はある程度状況の見える人で「豊臣の力は凄い」と考えていた。義久は「秀吉なにするものぞ」の勢いで戦いますが、負けてしまう。

それでも義久は鹿児島ファーストの旗を下ろさずにいたのですが、義弘は大坂へ視察に行き、巨大な大坂城を見て唖然とするわけです。なにもかもスケールが違う。この勢力とは戦いにならないと。

しかし、その後の朝鮮出兵でも、義久は当初、秀吉の動員に応えようとしなかった。それで上方の実力を知る義弘は「このままでは島津は潰される」と慌てることになる。九州の大名は特に朝鮮への出兵に際して、フル動員を命じられていたからです。約束の日までに島津部隊は到着しなかったのですが、やっと1万人の軍勢が送りこまれて、半島で大暴れした。今でも「鬼石曼子(グイシーマンズ)」と言われるわけです。

しかし地元ファースト派と上方派の相違は解消せず、最終的には、関ヶ原の戦場にたった1500名を率いて義弘が出陣する事態に至りました。

九州の最南端ですが、それでもあの人たちは枕崎や坊津を持ち、交易をやっていた。昔から商売上手で、経済にも意識が高い。その島津でさえ秀吉に敵わなかったわけで、北条では、とても対抗できなかったのは必然であります。