宣孝の性格

有能な官人であり、賀茂祭(かものまつり)の舞人をしばしば務めるなど、宣孝は雅な一面も持っていた。

長保元年(999)の賀茂臨時祭調楽(かもりんじさいちょうがく)では神楽の人長(にんじょう)を務め、「甚だ絶妙である」との評も得ている(『権記』)。

『紫式部と藤原道長』(著:倉本一宏/講談社)

『藤原宣孝記』という日記も記録している(『家記書目備考(かきしょもくびこう)』)。

『西宮記(さいきゅうき)』『祈雨日記(きうにっき)』に天元5年(982)から長保2年(1000)までの逸文(いつぶん)六条が残されているが、いずれも右衛門権佐として、著だ政(ちゃくだのまつりごと。「だ」はかねへんに大。囚人にあしかせを付け、検非違使<けびいし>が鞭打つまねをした公事<くじ>)、神泉苑(しんせんえん)の祈雨御修法(きうみしほ)、市政(いちのまつりごと)といった公事を丁寧に記録しているものである。

その一方では、派手で明朗闊達、悪く言えば放埒な性格でもあったようである。

永観2年(984)の賀茂臨時祭では御馬を牽(ひ)く役を務めずに召問され、除籍の処分を受けているし(『小右記(しょうゆうき)』)、寛和元年(985)に丹生社(にうしゃ)に祈雨使(きうし)として発遣(はっけん)された際には大和国の人の為に小舎人(こどねり)および従者を陵轢(りょうれき)され、そのためか殿上人の簡を削られて昇殿を止められ、官も追われそうになっている(『大斎院前御集(だいさいいんさきのぎょしゅう)』)。

この時は文名の高い大斎院選子(せんし)内親王の女房たちから慰めの歌を贈られるなど、その人気のほどが知られる。

正暦元年(990)にも「きっとまさか『身なりを悪くして参詣せよ』と御嶽の蔵王権現(ざおうごんげん)はけっしておっしゃるまい」などと言って隆光とともに、「紫のとても濃い指貫(さしぬき)に白い狩襖(かりあお)、山吹色のひどく大げさな派手な色の衣」といった装束で金峯山詣(きんぶせんもうで)をおこなったことが、『枕草子』第115段「あはれなるもの」に描かれている。

また、長保元年8月18日には、宣孝の所領である大和国田中荘(たなかのしょう)の預である文春正(ふみのはるまさ)を首魁とする賊党が、大和国城下郡東郷から朝廷に上納される早米使の藤原良信を殺害し、随身していた物を強盗するという事件を起こした(『北山抄(ほくざんしょう)』裏文書)。

以前から集団で殺害・強盗・放火をおこなっていた連中とのことであるが、これなども宣孝のいわばいい加減な性格がもたらしたものとも言えよう。