少女マンガの臨界に位置する作家
2015年、世田谷文学館で「岡崎京子展 戦場のガールズ・ライフ」が開催され、文学館開設以来の2万3000人を超える来場者を記録したという。
時代が岡崎京子に追いついたのだろうか。ようやく人々が彼女の作品を理解できるようになったのだろうか。
岡崎京子は誰にも似ていない。それまでの少女マンガ家はもちろん、彼女以降に登場した少女マンガ家とも明らかに異なっている。
そして、その後も岡崎京子に続く者はいない。なぜなら彼女が描いたのは、いわゆる少女マンガではないからだ。
むしろ、岡崎京子は「〈少女マンガ〉の臨界に位置する作家」(杉本2012:23)と位置づけられている。少女マンガというジャンル自体に揺さぶりをかけた岡崎の作品は、マンガの域を超え「マンガは文学になった」とまで言われるほどだ。
『くちびるから散弾銃』『pink』『東京ガールズブラボー』『ヘルタースケルター』──岡崎の作品にはたくさんの女の子が登場するが、それは少女マンガというカテゴリーに分類するには、とてつもなくパンクであまりにもニューウェーブなのだ。一般的な少女マンガが描いてきた女の子たちの夢や憧れの世界を遥かに超越している。
いつも一人の女の子のことを書こうと思っている。
いつも。たった一人の。ひとりぼっちの。一人の女の子の落ちかたというものを。
(『ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね』106)
なぜ、岡崎京子は女の子たちの夢や憧れではなく、その対極とも言える「一人の女の子の落ちかた」を書こうとしたのだろうか。
そもそも「女の子の落ちかた」とは何を意味するのか。何から落ちるのか。夢や憧れの世界か? それとも、女の幸せか? それは、妻や母になるという従来の女性の生き方に対するアンチテーゼなのだろうか。
類い稀なるマンガ家岡崎京子がどのようにして誕生したのかを見ていこう。