部屋着のよれよれの浴衣の上に、薄手のトンビコートを羽織ると、朝一番で編集部にいき、まだ眠たそうにしている百合川を起こして、真っ先に記事に目を通してもらった。
 しばらくして、原稿用紙を机の上に置く音におそるおそる目を上げると、百合川は穏やかな笑みをたたえて開口一番、いいじゃないか、といった。ハルはそんなふうに笑う百合川を見たことがなかった。
 けれど――と百合川は言葉を続ける。
「きみはちょっとロマンチストすぎるかもしれないな。物語が美しすぎる。きみのペンを通して伝えられる、海辺の市場で剝き牡蠣を売りながら教科書を読み続ける少女の物語はすてきだ。でも、少女はきみの物語の登場人物ではなくて、あくまで彼女自身の人生を生きている。それに、記者の使命は読者に安易な感動を届けることでもないんだ。書き直す必要はない。ただ、自分の特質のようなものは知っておいたほうがいい。それは美点であると同時に弱点でもあるんだ」
「あたしがロマンチスト? そんなことはじめていわれました――」
 そう返答しながらも、百合川の指摘していることがハルにはよくわかった。それが自分の特質だとまでは思わなかったが、共感するあまり少女の熱意を美しく描きすぎたのかもしれない。ただ、社会派のルポルタージュというより、美談風にまとめたことには、ハル自身の経験に根ざした、検閲への警戒心があったのもたしかである。
 ハルは記事を書いている間中、気になっていたことを百合川にたしかめてみたくなった。
「ほんとうにこの記事を掲載しても『黒猫』は大丈夫でしょうか? 場所もぼやかして、名前も仮名なので読者に少女が特定されることはまずないと思います。たしかに編集長のおっしゃったように、あたしはちょっと少女の熱意を感動的に書きすぎた気もします。でも、よく読めば、総督府の政策が問題だってことが読み手に伝わるんじゃないかとも思うんです――そんな記事がここで許容されるのかどうか、あたしわからなくて」
 百合川は、いつもの射貫くようなまなざしでハルを見た。
「では、きみは、この少女の人生を、日本統治と関係のないただの感動物語として書けるとでもいうのかい?」
 ハルは、はじめてしっかりと百合川の目を見て、絶対にできません、と簡潔に答えた。
「そうだろう。そんな欺瞞的な記者ならこちらからお断りだ。だから、気にするな。編集長はわたしだ。すべてに責任が取れるとはいえない。でも、傾きつつあるとはいえ、蔡家にはまだ力があるし、なによりきみは日本人で、しかも女だ。台湾にやってきたばかりの日本人の若い女の記者が、たまたま貧しい少女に同情を寄せる記事を書いて、そのなかで総督府のやりかたに少し疑義を呈したところで、すぐに捕まることはあるまい」