薄幸な女性「夕顔」のモデルとは
「五山送り火」の起源には諸説があり、始まった時期もよくわかっていないようです。大文字については「平安時代初期に空海が始めた」との説があるものの、俗説の域を出ないとか。おそらく、紫式部が生きていた頃には、まだ始まっていなかったのではないでしょうか。
しかし、遍照寺には足を運んだ可能性が高そうです。
最後に、遍照寺と紫式部にまつわるお話をひとつ。中秋の名月の夜、村上天皇の皇子である具平親王(ともひらしんのう)は、寵愛する妾、大顔を連れて、お忍びで遍照寺に出かけました。
ところが、月見の最中に、大顔が物怪にとりつかれて、命を落としたのです。
そのとき、紫式部は20歳。具平親王と親しかった紫式部や父・為時は、この話にたいそう衝撃を受けたそうです(紫式部と為時は具平親王の遠縁にあたり、二人は親王家によく出入りしていたとか。また、為時が親王家に仕えていたという説もあります)。
学才にも優れた高貴な具平親王に対して、大顔は親王家に仕える雑仕係にすぎません。身分違いの悲恋は、『源氏物語』の「夕顔」のエピソードの土台になったともいわれています。なるほど、大顔と夕顔、名前もなんとなく似ています。さらに、具平親王は光源氏のモデルの一人とも考えられているのです。
夕顔は、物語の序盤、第4帖に登場します。この逸話が正しいとすれば、紫式部が『源氏物語』を書き始めた当初から、夕顔のストーリーの構想は頭のなかにあったのでしょう。
架空の人物にもかかわらず、夕顔は読者に愛され、夕顔が住んでいたとされる下京区夕顔町には「夕顔の碑」まで建っています。
そんな魅力的なキャラクターを、『光る君へ』のまひろはどのように描き出していくのか。いよいよ作家・紫式部が動き出します。