合理的精神の持ち主

これより前、後白河の近臣である藤原信頼(のぶより)が、実力者の藤原通憲(のりみち)(信西<しんぜい>)を殺し、後白河と二条を幽閉して政権を握ったことがある。世にいう平治の乱だ。

このおり清盛は洛外にいたが、事態を知って都へ引き返した。強大な軍事力をもつ清盛が難なく洛中に入れたのは、信頼に敵とみなされていなかったからである。

清盛は、信西の子を婿に迎える約束をする一方、信頼とも密接な交わりを結んでいたのだ。

しかし反信頼派が台頭してくると、清盛は彼らと結んで一気に信頼派を打倒した。

それができたのは、特定の派閥に属さず、誰とでも組めるニュートラルな態勢、諸勢力と円滑な友好関係を結んでいた証拠であり、巧みな処世術といえるだろう。

清盛はまた、祈祷で雨を降らせ昇進した僧について「病人は時がくれば治る。旱天(かんてん)も続けば、自然に雨が降るのだ」とその法力を真っ向から否定。

港の修築のため人柱を立てようとした公卿の意見も退けており、迷信を信じぬ合理的精神の持ち主だったことがわかる。

教科書のいうように単に「強圧的」で「思うままに政治をおこなう」人物だったわけではないのである。

※本稿は、『逆転した日本史~聖徳太子、坂本竜馬、鎖国が教科書から消える~』(扶桑社)の一部を再編集したものです。


逆転した日本史~聖徳太子、坂本竜馬、鎖国が教科書から消える~』(著:河合敦/扶桑社)

あなたの知っている「歴史」はもう古いかも!?

教科書を切り口にした歴史の新説、教科書では紹介されない不都合な日本史……。

高校歴史教師歴27年、「世界一受けたい授業」でもおなじみの河合敦先生が解説。