家系をたどるとみんな親戚?

ついでにいうと、雅正の妻(つまり紫式部の祖母)の父親であり、兼輔の従兄弟にもあたるのが、歌人としても名高い右大臣・藤原定方(さだかた)。定方の歌は「小倉百人一首」にも入っています(25番)。

「名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな」 三条右大臣(藤原定方)

逢坂山のさねかずらの名が、恋しい人に「逢って」「寝る」ことを暗示するのなら、さねかずらをたぐり寄せるように、人に知られずに、あなたを連れ出す手立てがないものだろうか。そんな人目を忍ぶ恋の歌で、さねかずらは「小寝(さね)」(一緒に寝る、一夜を過ごす)に掛けられています。

小倉山のふもとにある三条右大臣(藤原定方)の歌碑
小倉山のふもとにある三条右大臣(藤原定方)の歌碑

定方は醍醐天皇の叔父(姉が宇多天皇女御で、醍醐天皇の生母)にあたり、醍醐天皇の外戚として出世しました。また、紫式部の夫、宣孝(のぶたか)は、定方の直系の子孫(ひ孫)です。

家系図を見ていると、みんながどこかでつながっていて(たとえば、公任の妻は村上天皇の孫なので、醍醐天皇のひ孫となり、定方につながります)、頭がこんがらがってきます。

さらに、定方の孫の穆子(むつこ/『光る君へ』では石野真子さんが演じています)は、道長の正妻・倫子の母となったため、中宮・彰子にもつながっていくという具合……。

複雑すぎてクラクラするので、家系図を精査するのはこのくらいにして、「小倉百人一首」との関わりに話を移しましょう。

先に紹介した曽祖父の兼輔や定方のように、「小倉百人一首」には、紫式部の親類縁者の和歌がいくつも採録されています。紫式部自身や、娘の大弐三位(だいにのさんみ、賢子)の歌もしかり。

それだけではなく、公任や赤染衛門、清少納言、和泉式部など、『光る君へ』に登場する人々の歌もたくさん選ばれています。そう考えると「小倉百人一首」が急に身近なものに感じられるから不思議です。