稀有な「闘う貴族」として

風狂の人花山院との確執も有名だ。

伊周と花山院との間で女性(藤原為光の娘)をめぐるトラブルがあり、兄伊周に与した隆家は院を威嚇、誤射の不祥事を起こしている。

伊周・隆家兄弟はそのため流罪となった。『栄華物語』『大鏡』などにも散見される出来事だった。刀伊事件の十数年前のことである。

刀伊の来襲にさいし、「帥、軍ヲ率ヒ警固所ニ到リ合戦ス」(『小右記』)とあるのも剛直さの表れだった。

貴族たる隆家自身が警固所近辺で戦うことは、稀有のことだった。このような規格外の行動力のためだろうか、後世には隆家を流祖と仰ぐ武士団も少なくない。

闘う姿勢を保持する隆家の行動は、わが国の外交の危機に大いに役立ったようだ。

*本稿は、『刀伊の入寇-平安時代、最大の対外危機』の一部を再編集したものです。

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刀伊の入寇-平安時代、最大の対外危機』(著:関幸彦/中公新書)

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