黄泉、常世、根の国「曖昧なる死者の空間」

日本神話の死後の世界は一つに絞られていない。『古事記』の語る黄泉には墳墓の内部のような感じがある。

常世はどこか遠くにあるものらしい。根の国は地下とも地上とも遠方とも海の底ともつかない感じだ。

『万葉集』などでは山中の他界のイメージも語られている。『万葉集』ではさらに、死んだ皇族は高天原に行くという取り決めが見られる。

ただし、天の岩戸に隠れることを死の隠喩としている歌もある(199番歌)。天駆ける霊魂の イメージと埋葬される遺骸のイメージが合体したものであろうか。

地下、遠方、海底、山中、天空の岩屋と、空間的にはばらばらである。強いて共通点を挙げるとすれば、「日常世界とは異なる遠くのどこか」ということだ。

たぶん古代人も、それ以上はよく分からなかったのだろう。

こうした「よく分からない」感は、『万葉集』第二巻にある柿本人麻呂の挽歌、「秋山の黄葉(もみち)を茂み惑ひぬる妹(いも)を求めむ山道(やまぢ)知らずも」(208番歌)にも表われている。

「秋山のもみじの木々が茂っている中に、もみじの魔 力に惑わされて迷い込んでしまった妻。逢いに行こうと思っても、私はその山道を知らないのだ。他界へはどうやって行くのか、見当もつかない」というほどの内容である。

この歌は(おそらく)歌垣で出遭った忍び妻(愛人)の死について歌った長歌に付属する反歌で、「山道」は他界(死後の世界)を意味する象徴として引き出されている。

実際に山に行った話をしているのではない。