『古事記』はイザナミの姿を次のように描いている
「ウジがわいてゴロゴロ言っており、頭には大きな雷が、胸には火の雷が、腹には黒い(?)雷が、陰には割くような雷が、左手には若い雷が、右手には土の(?)雷が、左足には鳴る雷が、右足には伏す(?)雷がいた」
ゴロゴロ言うという音は、喉がぜいぜい言うことを意味しているらしいが、死にゆく人の断末魔のようにも思える。
ゴロゴロいうのが雷鳴だとすれば、死体の崩壊というショッキングな出来事を、雷鳴や稲光の恐ろしさにたとえたもののようにも思える。
古代においては、貴人などの葬儀の仕方として、殯(「もがり」あるいは「あらき」と読む)といって死体を喪屋(もや)内に置いて腐敗させ、本格的埋葬まで待つ儀礼が行なわれた。
それを見た人はショックだったはずであり、『古事記』のショッキングな描写はその印象を表わしたものかもしれない。
建前としては、イザナキは葬儀を済まして「霊魂」化した妻を追いかけているはずなのだが(第一のビジョン)、読んでみた限りでは、イザナミは死体そのものであり、黄泉は遺骸安 置所そのものである(第二のビジョン)。
黄泉が地下にあるのか地上にあるのかはっきりしないのも、この矛盾と関係がありそうだ。
※本稿は『死とは何か-宗教が挑んできた人生最後の謎』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。
『死とは何か-宗教が挑んできた人生最後の謎』(著:中村圭志/中央公論新社)
死んだらどうなるのか。天国はあるのか。できればもう少し生きたい――。
尽きせぬ謎だから、古来、人間は死や来世、不老長寿を語りついできた。その語り部が、宗教である。本書では、死をめぐる諸宗教の神話・教え・思想を歴史的に通覧し、「死とは何か」に答える。日本やギリシアの神話、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教から、仏教、ヒンドゥー教、そして儒教、神道まで。浮世の煩悩を祓い、希望へ誘う「死の練習」帳。