日比谷を活性化させるために

大正12年(1923)9月1日の関東大震災後には、娯楽のメッカであった東京浅草は江戸情緒を感じさせる場所として、銀座に近い有楽町はモダニズムの繁華街として集客するようになる。

それに比べて日比谷界隈は火が消えたように、静かになってしまった。

松本楼(レストラン)の小坂光雄、更科(そば屋)の藤村源三郎、富可川(おでん屋)の井上忠治郎など飲食店の店主たちは、人の流れが変わってしまったことに嘆息し、日比谷を活性化する企画を思案した。

地方では盆踊りを開くと大勢の人が集まるが、東京は地方から人が移り住んできたため民謡がない。そこで丸の内界隈の民謡を作り、日比谷公園で盆踊りを開催することを計画した。

その曲作りをビクターに依頼した経緯には、井上が西條八十を知るカルピスの社長三島海雲を介して依頼したという証言と、舞踊家の花柳寿美の内弟子であった藤村の娘を介して依頼したという証言とが残されている。

どちらにしても、作詞の西條と、作曲の中山晋平につながる筋道を得ていたことになる。

こうして昭和7年(1932)6月に発売されたのが「丸の内音頭」である。表面を藤本二三吉、裏面を三島一声が歌っている。中山は「鹿児島おはら節」を前奏に用いる形で作曲した。