「和の様式美」が確立した平安の化粧

次に、化粧について見ていこう。

平安初期の唐風文化の時代は、奈良時代から続く中国風の朝服姿に花鈿(かでん)という額に文様を描く化粧法であったが、遣唐使が廃止になり、日本独自の国風文化が開花して発達する中で、中国風メイクの花鈿は消えていく。

そして、真っ白な肌に引目鉤鼻(ひきめかぎはな)で下ぶくれの顔立ちが良しとされ、「美人=白い肌」が美人の条件に加わる。

ただし、白い肌が良しとされたのは、唐の漢詩に「楊貴妃(ようきひ)」などの白い肌の女性が美人の条件を満たした人と称していたことから、漢詩に通じていることが貴族の一般教養であった平安時代では、彼らがそこから白い肌が美人の条件という認識を持っていたことも理由の一つであろう。

また、当時貴族の住居であった寝殿造(しんでんづくり)の構造は、昼でさえ薄暗い室内だったため白粉(おしろい)を塗り暗い部屋の中でも肌が美しく見えるようにしたというのが通説である。

では、どんな化粧法だったのだろうか。