顔や身体を覆い隠す、女性の参拝スタイル
院政時代では、貴族女性も時には外出や旅に出ることもあったようだ。行幸や主人の宿下がりのお供や自分自身の宿下がり、賀茂祭等の祭り見物、夫の任地への同行など様々な状況があったと考えられる。
上級女房クラス(例:清少納言や紫式部クラス)以上は牛車(ぎっしゃ)で移動していたが、中級女房達は徒歩で供をしていた。
その際のファッションが、袿姿の裾を歩きやすいように引き上げて腰を紐で結び、頭に市女笠(いちめがさ)を被る壺装束か、衣を一枚頭から被る被衣(かずき)スタイルだった。
ただし、神社仏閣に参詣する時は徒歩で参拝しなければご利益(りやく)がないとされ、上流階級の女性も顔や身体を覆い隠すスタイルで出掛けた。
この壺装束や被衣スタイルは、『扇面古写経』や『年中行事絵巻』の中に多数登場している。
その他にこの平安時代末期の院政時代に始まった男装の舞妓(まいこ)、白拍子(しらびょうし) のファッションも注目すべきだろう。
妓王(ぎおう)、妓女(ぎじょ)、仏御前(ほとけごぜん)、また鎌倉時代へと導いた武者の一人、源義経との悲恋で有名な静御前等が知られる。
スタイルの構成は、立烏帽子(たてえぼし)、水干(すいかん)、単、紅長袴に太刀佩(お)び、手に蝙蝠扇(かわほりおうぎ)。やがて太刀と烏帽子を外すスタイルへと変化し、静御前が髪を結い上げて、白袴を着けて舞ったとされる。