ファッションは奈良時代を引き継ぐ

時代も場所も変わったが、天皇が同じだったこともあり、服装は男女ともに平安時代前期は奈良時代とほぼ同様の唐風(とうふう)文化の色濃いスタイルであった。

その後も弘仁(こうにん)文化の代表的な人物でもある嵯峨(さが)天皇〈桓武天皇の第二皇嗣(こうし)〉に、舶来の文物への志向が強かったことも影響しているのだろう。

嵯峨天皇の弘仁年間(810〜24年)は唐風文化の全盛期で、建物の名前・朝会での儀礼・日常の衣服に至るまで唐風化されていったようだ。

奈良時代からすでに礼服(らいふく)・朝服(ちょうふく)などの儀式服や制服は唐制寄りだったが、ついに弘仁9(818)年には「天下の儀式、男女の衣服皆唐法に依(よ)れ」と日常の勤務服も全て唐風にするようにとの令が発せられた。

弘仁11(820)年には、天皇・皇后・皇太子の大礼服・中礼服なども唐制を参考にして定められた。

聖武天皇のときから即位や元旦(朝賀)の儀に着用されていた袞冕十二章(こんべんじゅうにしょう)が、明文化された。

天皇の中礼服は、黄櫨染衣(こうろぜんい)が定められ、現在はこの黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)が即位の礼で着用されている。

また、即位後に行なわれる御一代一度の大嘗祭(だいじょうさい)と悠紀(ゆき)・主基(すき)両殿の儀、および年中恒例の祭祀(さいし)中にて最も重い儀式である新嘗祭(にいなめさい)の時のみ用いられる御斎服(ごさいふく)があり、今上(きんじょう)天皇の即位の際の「悠紀殿供饌(きょうせん)の儀」でも着られている。