「国風」日本的なものが次々生まれる200年
寛平6(894)年、遣唐大使に任命された菅原道真は滅亡寸前の唐の混乱を見て、朝廷に遣唐使廃止を建議(けんぎ)した。
道真は危険を冒(お)かしてまで使節を送る必要性がないと判断したのではないかと推測される。
しかし中止は決定されたが、私貿易は続き、中国の文化の所産は「唐物(からもの)」としてもてはやされていた。
10世紀に入ると仮名文字が誕生し、住まいも唐風建築から徐々に日本の気候風土に適した(平安時代は平安温暖期で現代に近いほど暑かったとされる)寝殿造(しんでんづくり)建築に移り変わっていった。
10世紀前半頃まで、貴族達は唐風建築では中国や朝鮮のように靴・椅子・ベッドを使用していたが、10世紀半ば頃からは靴を脱いで上がり、床の上に畳を敷いて座ったり寝たりする現在の日本人と同様の生活様式に変わっていく。
また、朝廷の儀式も大極殿(だいごくでん)や豊楽院(ぶらくいん)で行なわれず、和風建築の紫宸殿(ししんでん)や清涼殿(せいりょうでん)で行なわれるようになり、立礼(りつれい)よりも座礼(ざれい)に変わり、貴族の衣服も全体に大きくゆったりと長くなっていった。
このころから約200年にわたり、平安中後期の大陸文化を消化し、日本的な情緒にかなう優雅で洗練された文化が成熟していく。これを平安初期の「唐風文化」に対し、「国風文化」という。
藤原摂関家の全盛、かな文字の普及による女流文学の発達など、まさに平安時代の中核を担った文化である。