「唐風」奈良からの脱出と謎多き2回の遷都
平安時代は延暦13(794)年、現在の京都(山城国やましろのくに)に遷都(せんと)としたことにより始まる。
時の桓武天皇(柏天皇かしわばらとも称す)はその10年前の延暦3(784)年に同じく山城国の長岡京に遷都している。
奈良からの遷都の理由はいくつかあった。仏教勢力から距離をとること、父・光仁(こうにん)天皇の代からの天智天皇流への皇統変化にともなう人心の一新。
また、桓武天皇の母方の百済(くだら)系渡来人氏族の和氏(やまとうじ)との関係が深い土地であった長岡京の水陸の交通が至便であったことなどが挙げられる。
長岡京には、平城京や平安京同様の都城もあったようだが、現在は京都府向日(むこう)市に長岡京跡が残るのみである。
では、桓武天皇はわずか10年でなぜ平安京に再遷都したのか?和気清麻呂(わけのきよまろ)の建議によるものとされているが、天災〈相次ぐ河川の氾濫(はんらん)〉や造長岡宮使(ぞうながおかぐうし)・藤原種継(ふじわらのたねつぐ)暗殺事件に関わる怨霊(おんりょう)への恐怖が原因だとする説が有力視されている。
10年間に2度もの遷都のために、国家財政が困窮したことはいうまでもない。また、官人達にとっても大きな負担であったに違いない。
延暦24(805)年には藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)の進言もあり、桓武天皇は遷都前から行なっていた38年にわたる蝦夷征討(えみしせいとう)と平安京造営を停止したため、都城の外郭をなす羅城(らじょう)は未完成のままとなった。
桓武天皇はその後まもなく崩御(ほうぎょ)するが、天皇がこれらの大規模な造営を可能にできたのは、出自から天皇になる可能性が低く、青年期に官僚としての教育を受けていたことや、経験豊富な壮年期(45歳)での即位が背景にあると考えられる。