彰子の影響力

しかも、この時点で彰子は国母であるとともに、皇太子の母となり、道長の子女の中でも飛び抜けた存在となった。

何しろ皇太后彰子は、天皇が幼いので2月7日の即位式では高御座に天皇を抱いて登壇して、道長以下の貴族・官人たちから拝賀されるのである。

とはいえ、道長のやり方にかなり批判的だったとしても、その反論が無視されていることからもわかるように、この時点ではあくまで、道長の権威の一部分、いわばロボットに過ぎなかった。

だがこの後、彰子は後朱雀の子の後冷泉、その弟の後三条天皇の時代に至るまで、宮廷で影響力を行使しつづける。

彰子は87歳という長命であった。

※本稿は、『女たちの平安後期―紫式部から源平までの200年』(中公新書)の一部を再編集したものです。


女たちの平安後期―紫式部から源平までの200年』(著:榎村寛之/中公新書)

平安後期、天皇を超える絶対権力者として上皇が院制をしいた。また、院を支える中級貴族、源氏や平家などの軍事貴族、乳母たちも権力を持ちはじめ、権力の乱立が起こった。そして、院に権力を分けられた巨大な存在の女院が誕生する。彼女たちの莫大な財産は源平合戦の混乱のきっかけを作り、ついに武士の世へと時代が移って行く。紫式部が『源氏物語』の中で予言し、中宮彰子が行き着いた女院権力とは? 「女人入眼の日本国(政治の決定権は女にある)」とまで言わしめた、優雅でたくましい女性たちの謎が、いま明かされる。