生まれた季節すらわからない

聖書においては、季節ということにもまったく関心が払われていない。その出来事が、春に起こったことなのか、それとも秋に起こったことなのかはまったく記されていない。日本とは異なり、中東には乾期と雨期の区別はあっても、四季の変化が鮮やかではないからだろう。

ただ一つ、それが起きた日が分かるのが、イエスが処刑される前、弟子たちととった、いわゆる「最後の晩餐(ばんさん)」である。マルコ、マタイ、ルカの福音書では、最後の晩餐はユダヤ教の「過越(すぎこし)の祭」の食事とされている。これは、ユダヤ暦では、ニサンと呼ばれる月の15日にあたる。現在のグレゴリオ暦では、3月の終わりから4月の中旬に相当する。ユダヤ暦は太陰太陽暦で、太陽暦であるグレゴリオ暦とは重ならない。

最後の晩餐の後、イエスは処刑され、3日目に復活する。したがって、イエスの復活を祝う「復活祭(イースター)」は、カトリック教会では、3月22日から4月25日までのあいだのいずれかの日曜日に行われる(東方教会では、4月4日から5月8日までのあいだの日曜日になる)。

最後の晩餐と処刑、そして復活が春の出来事だということは分かる。ところが、ほかの出来事については、それが一年のうち、いったいいつ行われたかは分からない。イエスの誕生については、季節さえ分からないのである。

 

ミトラス教の冬至の祭がクリスマスになった

2世紀の半ばに生まれ、3世紀のはじめまで生存していたキリスト教の神学者であるアレクサンドリアのクレメンスは、イエスの誕生を5月20日と推測した。

ところが、この推測した日は、キリスト教の教会に受け入れられなかった。『新カトリック大事典』(上智学院新カトリック大事典編纂委員会編、研究社)の「降誕」の項目では、ローマの『年代記』に収められた「殉教者帰天日表」の12月25日には、「ユダヤのベツレヘムにおけるキリストの誕生」とあることが指摘されている。またこれよりも古い、同じ『年代記』所収の「ローマ司教帰天日表」でも、降誕祭、つまりはクリスマスの存在を前提とした記述がある。

ローマのサン・ピエトロ大聖堂が降誕祭のもともとの集会場と考えられていた。『新カトリック大事典』では、クリスマスが12月25日に定まった理由として、「古代宗教の祭日の批判的受容によるとする説が今日では有力である」と述べられている。

この時代のローマでは、インドやイランで栄えたミトラス教が勢力を広げ、キリスト教と拮抗していた。ミトラス教では、12月25日は太陽を崇拝する日としており、ローマ皇帝のアウレリアヌスは、この日を「不滅の太陽の誕生・顕現の祭」として国家の祭典に定めた。そこから、キリスト教会は、ミトラス教に対抗するため、この祭典の日が、「正義の太陽」であるイエス・キリストが降誕し、顕現した日ととなえるようになったのだ。

ここで重要なのは、太陽神の祭典が12月25日に行われたのは、それが冬至にあたるからだということである。冬至は、これは北半球でということになるが、一年のうちで昼の時間、日の出から日没までが一番短い日のことをさす。この冬至から、日が長くなっていくわけで、冬至を境に太陽は再生したと考えられた。冬至は、新しい年のはじまりなのである。

イエス・キリストの誕生は、キリスト教徒にとっては、新しい時代の幕開けである。イエスが誕生した日が、新しい年のはじまりを意味する冬至の祭と重ね合わされるのは必然であった。