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いい加減なのは、本当に日本人?

改めて言えば、イエス・キリストは12月25日に生まれたわけではなく、その日に定まったのは、キリスト教の側からすれば異教となる宗教の冬至の祭と重なったからである。

日本人が、クリスマスを受け入れたのも、それがキリスト教の信仰だからではなく、冬至の祭に発する異教のしきたりだったからではないだろうか。

クリスマスのちょうど1週間後には、正月が訪れる。冬至の祭が、新しい年の幕開けを告げるものであるように、正月も、同じ意味合いを持つ。冬至からクリスマス、そして正月へと続いていくことで、日本人は、古い年が去り、新しい年が訪れたことを実感してきた。

クリスマスが12月25日ではなく、別の時期に行われるものであったとしたら、それは日本であまり広まらなかったのではないだろうか。アレクサンドリアのクレメンスの推測した5月20日では、季節の変わり目でさえないのである。

すでに述べたように、日本人がキリスト教徒でもないのにクリスマスを祝うことは、日本人が信仰についていい加減な証拠と見なされることが多い。

しかし、考えてみるならば、信仰にいい加減なのは、日本人ではなく、キリスト教徒の方ではないだろうか。それはとくに、ヨーロッパのキリスト教徒についていえる。

彼らは、本来は、ミトラス教やヨーロッパの土着宗教の信仰を取り入れることで、クリスマスを作り上げた。聖書には、クリスマスについていっさい記述がないにもかかわらずである。

しかも、クリスマスの行事において、イエス・キリストが中心的な役割を果たしているわけではない。中心になっているのは、白い髭(ひげ)をはやし、白く縁取られた赤い服を着て、赤いナイトキャップをかぶったサンタクロースである。サンタクロースは、トナカイの引くソリを操り、空を飛んで、子どもたちにプレゼントを届ける。