<ポスト道長>を見据えた三条

道長よりも10歳若かった三条天皇は、<ポスト道長>を視野に入れていたようで、即位するとすぐに道長と源倫子の次男・教通、源明子との次男・顕信を抜擢しようとします。

『女たちの平安後期―紫式部から源平までの200年』(著:榎村寛之/中公新書)

教通は、のちに摂政・関白・太政大臣を歴任することになる頼通の同母弟。

その教通が、三条朝では、明子との長男で異母兄にあたる頼宗を飛び越えて権中納言、つまり政策決定会議のメンバーになりました。

三条によるこの抜擢は、道長への贔屓の一方で、兄弟間で牽制させようという下心もあったのでしょう。道隆・道兼・道長の同母三兄弟の確執は当時まだ記憶に新しい所だったからです。

顕信は、藤原道隆の孫で、伊周の長男にあたる道雅と衝突。その従者同士が争った記録が『小右記』に見られます。

拙著『女たちの平安後期』でも触れましたが、藤原道隆と花山天皇には、一族郎党ぐるみのかなりこじれた関係がありました。

道隆直系である道雅とぶつかった鼻息の荒い公達・顕信を、花山の弟・三条が蔵人頭に抜擢するのは、「利用しがいのあるやつ」と考えたからとも思えます。

もちろん子供の抜擢は悪い話ではなかったのですが、そこは老獪な道長。教通の昇進を受け入れつつ、顕信の蔵人頭就任はことわります。

そして立身の道を断たれたと考えた顕信は即断し、世をはかなんで出家してしまう。

このあたりは『光る君へ』でも触れられていたとおりです。