「航海事業家」時国家
また、石川県(能登国)では能登半島の付け根にある気多大社が、福井県(越前国)の気比神宮と並んで、遅くとも八世紀には対外交通の要所を押さえる神社として朝廷からも尊崇を受けていました。
気多大社には隣接して、奈良時代から平安時代にかけて、砂堆の上に営まれた寺家遺跡という大規模な祭祀遺跡が確認されているのですが、そこでは大型焼土遺構と呼ばれる大規模な焚き火の跡が見つかっています。
これは、闇夜や悪天候の時に篝火を焚いて、航行する船の目印になった、一種の灯台のような役割を果たしたものではないかと考えます。そんな遺跡があるのも能登半島ならではなのです。
そして能登半島の先端、輪島市には、江戸時代の豪農であり、北前船を持つ「航海事業家」だった時国家の邸宅があります。
この時国家は、桓武平氏から「平家」を構成した一族で、公家平氏の平時忠(平清盛の妻・時子の兄弟)の子孫だと伝えられています。
「平家にあらずんば人にあらず」と言ったと『平家物語』では伝えられる時忠は、源平合戦の後、能登国に流されたのですが、その地で子孫たちが繁栄したというのです。