「ノートを写してくれますか」
私自身は、どうであろう。
私にはUさんという友人がいる。小学校の同級生で、ともに女学校へ進学したが、太平洋戦争が勃発したころ、Uさんはご家族と満洲(現・中国東北部)へ渡った。お父様が鉄工所を営んでいたからである。終戦を迎え、命からがら引き揚げると、一家は親戚の家の屋根裏に身を寄せた。
わが家は銭湯の近くにあったので、Uさんは毎日のように立ち寄り、引き揚げ時の苦労やその後の不自由な暮らしぶりを聞かせてくれた。
ある日、Uさんが中学生を対象とした夏期講座に一役買ってほしい、と言ってきた。私たちは当時16歳。訪れた夏休み中の中学校は、日差しでギラギラとしていた。
教室いっぱいの生徒を前に、私は「蚊の生態」について一所懸命に話した。そこにいたのが、のちの夫である。彼は地震の話をしていて、私は面白く聞いた。その後、道でばったり会ったが会釈をしただけだった。
師範学校を卒業し、K校の教員になってしばらくしたころ、電車で偶然再会した。
「この記章、何学部かわかりますか」
黒の学生服の襟に、金バッジが光っている。Jの字が見えた。
「法学部ですか」
「当たり」
10歳で父が戦死。母と妹を抱え、ただひとりの男手として彼にすべてが託された。木を伐り、柴を束ね、汲んだ肥を田畑に撒いて、少しの食い扶持を稼ぐ。そんな彼の肩は力こぶで盛り上がっていた。大学進学は亡き父の悲願だったが、勉強する時間がない。三浪の末に合格したものの、入学後も大阪府庁で書記のアルバイトをしていた。
「大学の友人から借りたノートを写してくれますか。妹に頼んでも拒まれました」
コピー機などなかった時代。苦労している姿を見かねて、助けになればと引き受けた。写し終えたノートを渡した際、映画に誘われた。そうして私たちは結婚した。夫は24歳、私は23歳。
新婚生活は、私が勤務するK校近くのアパートの、四畳半の一間からはじまった。夫は大学卒業後、研究生となった。夫の机、桐の箪笥、鏡台などの家具を置くだけで部屋はいっぱいである。遊びにきた子どもたちが、
「先生、窓から足出して寝るんか」
と心配してくれたほどだった。