賢子以外にもいた<女房の娘>たち
さて、大弐三位の他にも女房の娘が出仕していたと考えられる例はしばしば見られます。
たとえば赤染衛門の娘は江侍従(ごうのじじゅう)と言われ、『赤染衛門集』には彼女の代作をした恋の歌が残されているのですが、その相手が藤原道綱とも、道長と倫子の次男である教通とも読めるのでややこしい所です。
ドラマでは上地雄介さんが演じていた道長の異母兄・藤原道綱は赤染衛門と同世代で天暦九年(955)の生まれ。一方、赤染衛門の子で、江侍従の兄弟となる大江挙周(おおえのたかちか)が、その官職の昇進過程から見て980年くらいの生まれと見られる。
つまり、江侍従は道綱よりかなりの年下、長徳二年(996)生まれの教通よりかなり年上に。このあたり確たる資料があるわけではないのでなかなか難しいのです。
「娘が出仕」といえば、清少納言の娘も出仕していたとする説があります。
『尊卑分脈』によると、藤原棟世(むねよ)という藤原南家(摂関家からはかなり離れた“ローカル藤原”氏)の受領貴族の子に上東門院(藤原彰子)に仕えた「小馬命婦(こまのみょうぶ)」という娘がいました。彼女が歌人藤原範永(のりなが)の歌集から、<清少納言の娘>だと推測されているのです。
清少納言の夫としてよく知られているのは、離婚したのに『枕草子』には「兄」として出てくる橘則光(のりみつ)です。そして、則光の次の夫とされるのが棟世です。
なお、則光と清少納言の長男・則長の生年が天元五年(982)。
ですので、小馬命婦はそれより年下と見られます。そして清少納言が定子に出仕した時期が正暦四年(993)頃からと見られるので、小馬命婦はその間の生まれと思われます。
世代を整理すれば、赤染衛門の娘・江侍従が3人のうち最も年上で、その次が清少納言の娘・小馬命婦。さらにその下が紫式部の娘・大弐三位、という関係になるでしょうか。