「清少納言の孫」と「紫式部の孫」が恋愛?

清少納言の娘・小馬命婦は、長徳元年(995)の「長徳の変(藤原伊周と弟の隆家が花山法皇を襲った事件)」の前後、彰子のところに出仕していたと見られています。

『枕草子』によると、ドラマとは違って、清少納言は道長に近しかったようなので、その線から彰子の元に出仕したのでしょうか。それが、長徳の変の後に清少納言が定子の元に居づらくなった理由の一つになったのかもしれません。

小馬命婦の生涯についてはほとんどわからず、いろいろな説があるのですが、少し興味深いのは藤原伊周の娘(帥の御方=そちのおかた)が、伊周が寛弘七年(1010)に死去した後、太皇太后となった彰子の元に出仕しているらしい、ということ。

つまり清少納言の娘が、定子の姪の「先輩女房」になっていたのかもしれないということですね。

『後拾遺和歌集』には、小馬命婦が自分の娘に代わって不実な恋人に遣わした歌が採られているのですが、彼女が本当に清少納言の娘ならこの話、少し面白いことになります。

その恋人は詞書によると“為家朝臣”とあり、高階為家(たかしなのためいえ)だとされています。だとすれば、その母は大弐三位で紫式部の孫。つまり二大才女の孫同士の恋愛スキャンダルになるのです。

紫式部の孫・為家の生年は長暦二年(1038)。小馬命婦の娘の年は分かりませんが、990年より前とすると、その娘は1010年代の生まれと見るのが妥当なところとなるので、為家よりはいささか年上になるように思われますが・・・。