石原裕次郎さん歌唱の様子
写真提供:テイチクエンタテインメント
昭和を代表するスター・石原裕次郎。映画やドラマで活躍しながら歌手としてもヒット曲を多数世に送り出したが、1987年7月17日、52歳の若さで亡くなる。その3ヵ月前には、なかにし礼作詞、加藤登紀子作曲による新曲「わが人生に悔いなし」をリリース。後世に歌い継がれる1曲となった。2024年12月28日、石原裕次郎が生誕90年を迎える。

「伝説」であり続けた石原裕次郎

2024年12月28日、石原裕次郎が生誕90年を迎える。1934(昭和9)年12月28日、神戸市須磨区に生まれた。幼くして小樽市へ転居、9歳の時に神奈川県逗子市へ。戦前だがリベラルな家庭に育ち、生涯、海とヨットを愛した。来年、2025年は昭和でいうと100年を迎える。石原裕次郎は、激動の昭和を牽引したまさにスーパースター。そのデビューから52歳で亡くなるまで「伝説」であり続けた。

石原裕次郎が、兄・石原慎太郎の芥川賞受賞作品の映画化『太陽の季節』(日活・古川卓巳)でスクリーン・デビューを果たした時、まだ慶應義塾大学の学生だった。兄・慎太郎が一橋大学在学中に執筆した『太陽の季節』は、弟・裕次郎とその仲間たちの行状をモチーフに執筆した。

まだ大学生だった石原兄弟の登場は、まさに「もはや戦後ではない」と経済白書に記された1956(昭和31)年を象徴する大事件だった。『太陽の季節』芥川賞受賞パーティで、慎太郎から裕次郎を紹介された、日活のプロデューサーで、日本映画初の女性プロデューサー・水の江滝子は、裕次郎に大器を感じて端役に抜擢。それがクランクインから話題となり、映画公開前には、慎太郎原作による次作『狂った果実』(日活・中平康)の主演に裕次郎をキャスティング。それを引き受ける際に、裕次郎が出した条件は、相手役を北原三枝にすることだった。

狂った果実 ポスター
©日活

のちに裕次郎夫人となる北原三枝は、松竹で映画デビューを果たして、昭和20年代後半、一世を風靡した『君の名は』第二部(1953年・松竹・大庭秀雄)に出演。高校生だった裕次郎はスクリーンの彼女に夢中になり、近所の映画館で上映された時には、母・光子を連れて行って、彼女のファンであることを公言した。「北原三枝さんのような女性と結婚したい」と話していたと、小学生の頃から裕次郎の幼馴染だった、のちの俳優・川地民夫さんから伺ったことがある。

憧れの女優を指名して、堂々たる主演ぶりを見せた『狂った果実』は、大学生の兄・裕次郎と、高校生の弟・津川雅彦が、美貌の人妻・北原三枝をめぐって争うというセンセーショナルな内容で、たちまち評判となる。前作『太陽の季節』同様、湘南の若者たちのアンモラルな行状が描かれて、良識者たちの眉をひそめさせた。

評論家の大宅壮一は、そうした無軌道な若者たちを「太陽族」と命名。「太陽族映画」は公序良俗に反するものとして、大人たちからの猛烈なバッシングを受けた。

それは、同じ1956年、「ハートブレイク・ホテル」「ハウンド・ドッグ」をリリース、世界中でセンセーションを起こしていたエルヴィス・プレスリーやロックの登場とよく似ていた。エルヴィス・プレスリーは1935年1月8日生まれ。つまり裕次郎と同世代だった。