富岡多惠子と池田満寿夫(『婦人公論』1965年5月号)

 

戦後の日本文学史に決定的な影響を与えた詩人であり、作家であり、評論家であった富岡多惠子。54年を連れ添った夫・菅木志雄をはじめ、さまざまな証言者への取材をもとに、87年の生涯を辿る。

吉村二三生と芳子

  ともに暮らして2年半、芸術家カップルは上昇気運に乗りはじめていた。1963年の夏、富岡多惠子と池田満寿夫が駆け落ち先の新宿十二社の下宿家のあとに選んだ家は、世田谷区松原にある一軒家だった。
 ふたりと親交のあった作家の森茉莉は、そこへ出かけるときはいつもマスオが自転車で駅まで迎えに来てくれた、と書いている。
〈何度も曲りくねり、曲線で曲つてゐて、普通の住居ばかりのために曲り角に覚え易い建物もなく、全くわかりにくい道であつた〉(「芸術新潮」1977年3月号)
 のちにその家を受けつぎ、新しい家を建てて住んでいるフランス文学者で、シュルレアリスムの研究と実践で知られる作家・巖谷國士は、「明大前駅からの道順(約10分)」とある自宅までの丁寧な道案内をメールで届けてくれた。
「……大きな柿の木のある白い左右対象の二階家が★わが家です。白い低い朽ちかけた木の戸をあけて直進し、真ん中の灰色のドアの左にある旧式のベルを、ブーと押してください」
 確かに案内をもらわなければたどり着くのが難しい洋館だった。
 富岡と池田がこの家の建つ前にあったアトリエつきの住居に暮らしていたとき、巖谷はまだ二十歳の東大生で、隣接する家で祖母、吉村雪と住んでいた。82年に自身が建て直したという。
「ここはもともとは油絵用のアトリエでした。玄関を入ると4畳半の部屋があって、その奥に広がる16畳ほどのアトリエは吹き抜けになっていて、階段を上がると4畳半の畳の部屋と2畳の物置みたいな空間。アトリエ横の台所は3畳あるかないかでした。トイレットはまだ汲み取り式です。風呂場が別棟になっていて、脱衣場と洗濯場のほかに物置を兼ねていた。アトリエには銅版画のプレス機を置いて池田さんが使い、多惠子さんは2階の4畳半で原稿を書いたりしていたわけです。アトリエの一角に巨大なテーブルがありましたが、それも半分壊れかけた、どこかで拾ってきたもの。多惠子さんは市販の本棚を2階にいれていましたが、やがて板とブロックを買ってきてアトリエの端に大きな本棚を作った。それまでは5畳半の部屋だかにふたりで暮らしていたということで、ここはそれよりずっと広いと言って喜んでいましたね」
 このアトリエつきの質素な木造2階家は、50年代に巖谷の母方の叔父のアーティスト・吉村二三生が東京芸大の油絵科の後輩、大島芳子と結婚し、土地を借りて建てたものだった。叔父夫婦は家事を分担して、闊達に意見を交わし、自由で幸せな生活を送っていた。
 巖谷は、マスオとタエコと出会う前に、互いを尊重し合う芸術家カップルを知っていたことになる。
「対等に生活しているふたりを見て、子ども心にいいなぁと思っていました。芳子さんは岸田衿子さんや中谷千代子さんなどと同じく、戦後に上野の美術学校が東京芸術大学となって歴史上はじめて女性を受けいれたときの一期生なんです。二三生の母の吉村雪は29歳で医師の夫を亡くしてから、シングルマザーとして3人の子どもを育てた女性。アメリカ生まれで府立第三高女を出たそんな母親のもとで育った二三生は、まわりの男たちから男女平等主義者だと揶揄されても決して同調せず、実際に家父長制的なところがありませんでした。
 ただ画家といっても油絵だけでは生活ができません。ふたりはやがて、日本にいたのでは思うように仕事ができないので、アメリカに渡る計画を立てることになった。雑誌の挿絵やスライドの原画などを描き、芳子は靴などのデザインの仕事をして、収入を得ていたようです。そうしながらふたりで渡米にそなえていた61年か62年に、たまたま出会うことになったのがケイト・ミレットです」