マスオとタエコがアトリエにやってきた日

 マスオとタエコがアトリエにやってきた日の巖谷の記憶は鮮明である。
「こちらはまだ二十歳の学生でしたが、ふたりはだからといって軽く見るでもなく、フレンドリーでした。服装も覚えています。当時の男性はワイシャツが普通でしたが、池田さんも白シャツに普通のズボンをはいて、髪の毛も後のトレードマークになるあのモジャモジャ頭じゃなかった。富岡さんは地味でいくぶんラフなワンピースかなにかだと思います。
 それですぐに、ガンガンしゃべりました。アトリエを見て『ここ、いいじゃない?』とか『こうしたらいいんじゃない』とか、ふたりでやっていて、仲の良い夫婦だなと。東大やその周辺で出会う人たちとはまったく違うタイプというか、簡単に言うと自由な感じです。同調も忖度もなく、遠慮も衒いもなく、思ったことをバンバン言いあう。若いアーティスト同士ということで、子どものころから吉村夫妻を見ている僕にとっては、そっちのほうが普通で、向うが年上でもつきあいやすかった」
 その日に引っ越しの日取りが決まった。
「引っ越しの日はトラックに荷物を積んで来ただけです。僕も少し手伝いましたが、そのとき一緒に来た学生がいて、早稲田の仏文だったかな、その後、『ミュージックライフ』や『パイデイア』を経て中央公論の『海』など編集者になる安原顕です。池田満寿夫はすでに名前が出ていて、安原は彼の絵のファンだった。で、その夜からパーティーが始まるわけです。パーティーといってもつまり、酒を飲んで騒ぐだけですが」
 森茉莉に「マスオとタエコと、そのパアティ」というエッセイがある。
 〈それはツウィストや、サアフィンや、ウイスキイ、麦酒、腸詰(ソオセージ)、海月(くらげ)と胡瓜と塩漬豚(ハム)、若い美術家、サド研究家、詩人、ニグロの若ものたちが泡立ったりがやがやしたりして〉(「文藝」1966年1月号)
 パーティーの中心メンバーは、入居の年の2月、池田が土方巽のダンスリサイタル「降霊館死学」の美術を担当したのを契機に急速に親しくなった芸術家や詩人、既存の文化や体制に対抗するカウンターカルチャーど真ん中の人たちだった。そこへ富岡の母と同い年の森茉莉に萩原葉子も加わり、編集者も参集する。無論、巖谷も呼ばれれば顔を出す。マスオとタエコの交友関係は一気に広がっていった。
「たとえば土方さんの『暗黒舞踊』の会のあとに新宿の飲み屋などで飲んでから、マスオとタエコのところへ行こうとなったり、昼間に誰か来て話しているうちに次々と電話で呼び出して人数が増えていったり。アトリエには電話がなくて、隣に借りに来るわけです。窓越しに電話するので、どういうことが起こっているか、祖母はだいたい知っていました。電話も億劫だった時代で、予告なしに来ちゃう人もいた。その代表が西脇順三郎で、『近くに来たんで寄りました』なんて具合に、多惠子さんに会ってお茶飲んで行く。深沢七郎が自転車でひょろひょろと来たこともありましたね。『風流無譚』で右翼に追っかけられていたころのはずで、この近所に住んでいたこともある。そのまま家にあがって騒ぐようなことはありませんでしたが」